ハイル・ヒトラーの意味

多様性について考えている。前回までに、多様性は「動きのある状態」だと考えた。異なった価値観が同じ場に共存するというようなイメージだ。まだ、それがどのような意味合いを持つのかは分からないのだが、取りあえず、違った価値観がぶつかると新しいアイディアが生まれ、それが豊かさにつながるのだと、いささか功利的な説明をしている。

この「多様性」を考えるに当たって、対極にある「排他性」を考えてみることにした。最初はユングあたりを読んで、ヒトラーについて言及しようと考えたのだが、『エッセンシャル・ユング』などのユング研究書はナチズムに関する言及を避けているように思える。(実際にはユングはナチズムについて発言をしているらしい)また、ユングは曼荼羅を書いて「ああ、今日は心が乱れているなあ」とか「今日はよくできた」などと観察している。その関心はもっぱら自分の心の中を向いているようだ。

ハイルというドイツ語は「完璧な状態」を示す

その代わりに見つけて来たのが、「ハイル(heil)」という表現だ。普通「ハイル・ヒトラー」は、ヒトラー万歳と訳される。しかし、この単語は英語ではwholeを意味する一般的な形容詞なのだそうだ。Google翻訳を通してみると、heilは「ヒール」すなわち「癒す」となる。どちらかが誤訳というわけではなさそうだ。つまり、英語やドイツ語では「完全な、全体である」という用語と健康な状態を同系統の単語で表現するようなのだ。英語の辞書でwholeを引くと「健康な」という定義が最初に来る。つまり、全体性を回復する動きが健康になる、癒されるというイメージである。これが「完全な」というイメージにつながる。

また、ナチス式の敬礼は「ローマ式」だと考えられているらしい。これを理解するには、少し歴史を見る必要がある。西ローマ帝国が崩壊してかなり経ったあと、ローマ教会は神聖ローマ帝国を後継に選んだ。これが徐々に「ドイツ人の帝国」を形成する。実際には1つの国ではなく、他民族を含んでいた。この神聖ローマ帝国は、「フランス皇帝」ナポレオンの時代に崩壊した。神聖ローマ帝国の皇帝はローマの権威とは関係がない「オーストリア皇帝」になり、ハンガリーと合邦してオーストリア・ハンガリーを形成する。

つまり、ドイツ人は、ローマ人の後継だという漠然とした自負はあるものの、現代的な意味での「ドイツ人意識」というものは持っていなかった。そもそも「ドイツ人」という言葉が何を意味するのかという明確な定義は今もってない。長い間神聖ローマ帝国の人たちは「ドイツ人」意識を明確に持つ必要がなかったのかもしれない。言語としては明確に他者と区別されるドイツ語を話しているのだし、指導者層として役割も明確だったからだ。しかし、その自意識は結局の所、ローマ教皇に与えられたものであり、自分たちで作り出したものではなかった。

アドルフ・ヒトラー(オーストリア出身)が台頭し、カール・グスタフ・ユング(スイス人)が「人格の統合」について取り組んでいた時代のドイツ人たちは「自分たちがどのようなアイデンティティを持つか」という点について確かな見解が持てない、とても不安定な時期にあったのだということが言える。

古い枠組みがこわれ、急ごしらえのアイデンティティが作られる

ここから徐々に作られるのが「アーリア民族」という意識だ。ヨーロッパの中のドイツ人という位置づけから、世界を指導するインド・ヨーロッパ系の正当な代表だという意識が無理矢理作られる。そして、インド・ヨーロッパ系ではないユダヤ人が排除されるようになるのである。インド・ヨーロッパ系を広く指す「アーリア民族」とそもそも定義のはっきりしないドイツ人はイコールではない。そこで「〜ではない」人たちを置く事によって、自分たちの優位性と純粋さを証明しようとする。

排除すべき他者ができると、社会の弱くてみにくいところを「ユダヤ人」に押し付けるようになる。しかしながら、なぜそうした思想を持つようになったのかはよく分からないし、それがどうしてドイツ人に広く受け入れられたのかも、なんだか分からない。

つまり、最初から細部の整合性を欠いた思想であり、それが行動に移る事で、さらに支離滅裂な単なる大虐殺へとつながって行ったのだと考えられる。

ドイツは結局第二次世界大戦に破れて、長い間分断していた。これが戦後再統合されて、ヨーロッパの中のドイツ人という新しい意識を作り出したのだった。

多様性が失われるのは、その社会が危機にあるからだ

100x100興味深いのは、このようにめちゃくちゃになった状態で、人々が陶酔しながら「全体」とか「健康な状態」を意味する言葉を叫んでいたという点だ。つまり「全体の調和が乱れて、不健康な状態であったから」こそ、このように叫び続けなければならなかったのではないかと考えられる。つまり、純粋さや均質さに対する指向というのは、逆にバラバラになりつつあるという危機意識の裏返しに過ぎないのである。

この「多様性を認めない時代」の分析から分かるのは「多様性がある状態とは、あるまとまりが包括的にスムーズに流れている状態健全な」ということだ。

「ヘイトスピーチ」が危険なのは、極論すれば、攻撃対象になっている人たちが「かわいそう」だからではない。それは「ヘイトスピーチ」を叫んでいる人たちがバラバラになりつつあり、それに気がついていないからだといえる。彼らはもしかしたら「異物の排除」に成功するかもしれないが、それでも問題は解決しないに違いない。いったん気が抜けたようになり、更なる獲物を求めてさらに過激な行動に出るしかない。