経済活動のリスクは誰が負担すべきか

大きな絵が欲しくなり、ウルリッヒ・ベックの小冊子をぱらぱらとめくった。「リスク社会」という概念について書いており、ベックは、ドイツ一国が強くなってしまった現状を分析しつつ、このままヨーロッパの理想を追求すべきだと言っている。その主張は、どことなく超然としている。

「ヨーロッパの若者に仕事がないこと」と「リスク社会」がどのように関係しているのかは分からないが、人々がリスクを回避しようとすればするほど社会への依存度が増すということはわかる。それは国家社会主義を越えて、EUのような領域社会主義へと至る。さらにグローバル社会主義のように緊密に絡み合った体制に移行するだろう。すると皮肉なことに、一人ひとりの役割が限定されてしまう。

現実は不愉快だが、構造は面白い。自由主義の人たちは、活力を得る為に「私利私欲」を肯定し有効に活用しようと考える。ところが、その行き過ぎたやり方はリスクを生み、個別のリスクは全体へと付け回しされる。すると、それは「グローバル社会主義」への望みを拡大させる。リスクが巨大で一カ国だけではとても賄いきれないからだ。すると、自由主義は押し込められ、やがて反動が増す。以下、この繰り返しではないか。

経済学者の池田信夫は原子力発電所は合理的な選択だと考えている。福島第一発電所のような事故は100年に1度しか起こらず、年あたりの事故処理コストは無視できるという。だから無視しても構わない、というのが議論の筋だ。

だが、サブプライムローンで分かったように、無視できるコストを切り刻んで処理をすると、結局計算外の大きなコストが発生する危険が生まれる。池田信夫は思想家というより、旧来の経営者たちのポジションを代弁しているだけなのだろう。つまり「儲けて何が悪い」という人たちだ。

原発の場合には、国家的あるいは国際的な保証のスキームを作らない限り受け入れは不可能だろう。つまり日常の儲けのために、誰がそうした保障システムのコストを負担するのかという問題が出てくる。

この負担について考えているエッセーを見つけた。内田樹の『五輪招致について』では東京五輪招致のような「私利私欲」と「アジアとの付き合い」や「福島事故の処理」などの問題を対置させて安倍政権を批判している。内田は「どれくらい儲かるかを計算する事=金儲け」を否定的に捉えている。儲けは一部の人たちの手に入り、一方で大衆はコストばかりを押し付けられるという前提があるのだろう。

だが、内田の議論『五輪招致について』は「新自由主義」と「ゆきすぎた社会主義」の対立を、「金儲け」と「文化的成熟」に置き換えているので分かりにくくなっている。

いずれにせよ、企業の儲けの受益者とリスク負担について考えない限り、この問題は収束しないだろう。

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