物事を単純化してもリスクは消え去らない

文明は困窮を充足に、危険を安全に置き換える試みだった。個人のがんばりが重要だということになり、自由主義が生まれた。自由主義では、所有の自由、チャンスの平等、安定的継続的な市場などが重要だと考えられている。危険を安全に変えるために作られたのが社会主義的なアプローチだった。できるだけ大きな枠組みでリスクを保障するという仕組みがとられた。

ところが、どんなにがんばっても危険(リスク)はなくせなかった。『危険社会 – 新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)』は増大するリスクによって、結局世界は緊密につながらざるを得なくなり、逃げ場がなくなったと指摘している。ベックの指摘する危険には放射能汚染や化学物質に汚染される食品などがある。情報が取りやすくなると、却って不安を意識することが多くなり、。リスクの扱いに困るたびにリスクを保証する枠組みは大きくなった。『危険社会』が書かれたころには、緊密に連結された金融市場はまだ登場していなかった。つまり、リスクは増え続けている。

日本ではリスクを世代間で負担しようとして年金問題という時限爆弾を抱えることになった。ヨーロッパでは国家間が協力する事でリスクを管理しようとしたのだが、キプロスやギリシャなどの周辺国で問題が発生した。ベックは最近の著作で、ギリシャの命運をドイツの国民が決めることになったことで「民主主義そのものが危機に陥っている」と言っている。財政が破綻したギリシャの議会には自分たちの運命を決める権限がなく、実際に決定しているのはベルリンとブリュッセルだからだ。
民主主義はリスクを持て余しつつある。国家でさえリスクを持て余しているのだから、個人はほとんど「リスクに飲み込まれている」と言っても良い。リスクは国家の枠組みを越えつつある。

ドラッカーは『ドラッカー名著集7 断絶の時代』の中で、グローバルに結びついた経済、新しいイノベーションによって急速に変わる世界、脱中央集権した組織、知識中心主義などの概念を用いて未来を予想した。当時は新しかった理想はアメリカの覇権の元で実現するかに見えた。ところが最近ではこうした変化そのものが「リスク」だと捉えられているようにも見える。(『断絶の時代』についてのダイヤモンド社の提供する概要はこちら

アメリカ人は、こうした問題を解決する為に文化的な背景を無視して「ユニバーサルな」解決策を提示しようとした。『Crazy like US』という著作では鬱病についてのアメリカ流のアプローチが紹介されている。

日本はもともと憂いを文化に取り込むことで「鬱状態」に対処していた。ここに「心の風邪だから薬を飲もう」というソリューションが登場したことで、却って鬱病が病気になってしまった。鬱病の薬が有効性があるかという点には議論があるそうだ。

こうした流れは全て「グローバリゼーション」と呼ばれて、新自由主義と同じように嫌われている。これは「文化の違い」という複雑なものを単純化しようとした結果、却って状況を悪化させたのだと考えることもできる。

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