GHQの模索した「直接民主主義」と都知事選挙

かつて「自分たちで土地や労働力を出し合って暮らしをよくしよう」という政策があった。高度経済成長下でこうした政策は失われた。そして今、なぜか東京都知事選の隠れた争点になっている。

衛星放送のチャンネルでGHQが作成した啓蒙映画を見た。「腰の曲がる話」というタイトルだ。

女性蔑視が残る戦後の農村で、女性だけの寄り合いが持たれる。きっかけは子どもの病気だ。一家の主人は「子どもを医者にかけるとお金がかかるから祈祷師で充分だ」と主張する。しかし、一向に良くならず医者に見せる事にしたのだ。医者は医療環境を充実させるために、村に保健婦を置くのがよいと提案する。そこで村の女性たちは組合を作る。組合では保健婦の他にも「共同炊事場」や「着物の補修場」が提案される。

「面白いな」と思った。みんなで「協力して」必要なものを作る、いわば直接民主制的なやり方が「GHQのお薦め」だったのだ。政府に金がなく、農村の面倒を見る余裕がなかったのかもしれない。

こうしたやり方は次第に失われてしまった。今では直接民主主義(いわば住民自治)的なやり方は、教育委員会制度やPTAなど形骸化した形で残っているだけだ。自治会も理事のなり手がいないということで解散に追い込まれる例があるそうだ。唯一機能しているのは、都知事などの首長選挙である。だから、あまり東京と関係がない「国民の意思集約」が都知事選の争点になったりする。

農村では、人口が増加し都市近郊の農地が「住宅地」として売れるようになった。都市近郊には土地区画整理組合が作られる。そこで農地を売って住宅地に替えて価値を高める。このようにして、助け合いで農村を維持する必要がなくなる。住宅地提供がその土地の「主要産業」になった。

この流れで出てきたのが、田中角栄の「日本列島改造論」(1972年)などが有名だ。都市とその近郊が潤ったのだから、次は自分たちの番だというわけである。具体的には工場の誘致と高速道路網の整備などが掲げられており、原子力発電への転換についても書かれているそうだ。つまり、東京の小型版を地方に移植して、地域を活性化させようとしたのだ。

「日本列島改造論」は、高度経済成長下の都市では賄いきれないものを地方が肩代わりするという発想だ。この前提が崩れて久しいが、政策としては高度経済成長という大前提を崩すのが難しい。

安倍政権ではここから脱却する為に「公益」という考え方を取り入れて「国柄」を変えようとしている。これが憲法改正の論点の一つになっている。問題点は、では国が行うべき事業とはなにかという点なのだが、そこには答がない。

皮肉なことに、現在の東京都知事選挙の争点は、実は「日本列島改造論」に関連している。高度経済成長期のマインドセットを脱却するか、東京オリンピックの誘致を通じて高度経済成長を気分だけでも味わうかというような選択である。本来は地方が自分たちで考えた方がよい問題なのだが、なぜかまだ時間的に余裕がある東京で議論が進んでいるのである。

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