女たちはなぜLINEはずしをやめられないのか

LINEいじめについて考えている。今回までの結論は非自発的に作られた閉鎖的な空間では人間関係の単純化が起こるというものだった。しかし、このモデルは選択的にグループを作る母親同士の息苦しい「カースト化」は説明ができない。

もともと、人間の社会は伝統によって体系化されていた。しかし、伝統的な社会は解体し「個人の価値観が」価値体系を決めるような社会が作られた。伝統からは解放されたものの、個人は自由への不安に苛まれるようになる。さらに、選択肢が増えると「他者の動向」を規範として採用するようになった。テレビや雑誌といったメディアによって「他者」は拡大した。選択肢は爆発的に増えたが、選択が難しくなり、不安も増大した。

女性の価値は何を持っているかで決まる。どの街に行き、何を選択するかによって価値が決まるのだ。ところが、その価値を自分で決めることはできない。他者の評価がその人の価値を決める。こうした選び取る力を「女子力」と呼んでいる。何が正解なのかは分からないが、それは確実に存在する。

さらに、ママの価値は「持っている」夫や子供の価値によって決まる。つまり、人がモノのように扱われるのだ。子供に何を着せているか、清潔に保たれているかなど、すべてが評価の対象になる。そのように考えると「どんなママと付き合うか」が評価の対象にならないはずはない。

ぞっとする話だが「ユニクロのシャツが気に入らない」というのと「あのお母さんが気に入らない」というのは同列の話なのだ。ユニクロのシャツについて悪口を言う人が「ユニクロのシャツをいじめている」という意識を持つ事はないだろう。従って、LINEで悪口をいう母親も実は「それが悪口だ」という認識を持っていないのかもしれない。

もちろん、これだけで事態が息苦しくなるはずがない。女性はいつも品定めされているが、自分で価値を決めることはできないし、正解が何なのかもよく分からない。それは価値を決める他者が不特定多数に広がっているからだ。そこでグループを限って、そこで価値基準を決めれば良い。価値基準のはその場にいる人たちや話し合いの成り行きで決まる。最終的な結果が大切なのではなく、話し合いの過程こそが重要なのだ。そこで、そこに集った人たちの選択が正当化されるように物事が決まって行くだろう。集団の状況や成り行きのことを「コンテクスト」と呼ぶ。

妻たちは夫に事細かな状況を話した挙げ句「私は悪くないわよね」と承認を求めることがある。夫はなぜながながとした話が問題と関係があるのかは分からない。女性はコンテクストを相手と共有することで共感を得たいと思っているのである。

ママ友はコンテクスト依存の高い文化なのだと言える。

コンテクスト依存の高い文化では「ユニクロのシャツが気に入らない」と公言している人の仲間が「ユニクロのシャツを着る」ことは裏切り行為だ。そのコンテクストの選択を批判することは、そこにいる人たちの人格を否定し、それまでの話し合いの過程を否定することになるからだ。だからそれは全人格をかけた戦いなのだ。

この時点で、女性たちは、不特定多数の他人からの拘束を受け、さらにママ友たちの拘束を受けている。拘束しているのは他ならぬ本人たちだ。なかには子供が仲間はずれになるからといって、息苦しい拘束から逃れられない人もいるのだという。

スマホの登場で拘束は24時間続くようになった。マルチタスク化の効果で合理的な判断力は鈍り、やりとりは感情的になる。新しい情報は、その人の脳につかの間の報酬を与える。するとやり取りは過激化することになるだろう。

問題の根幹は「選択」と「選択した個人の価値」が不可分に結びついているという点だ。なんとかしてここから抜け出す事ができれば、苦しみを減らすことができるだろう。

しかし、テレビでは無数の企業が「正しい選択」をと迫ってくるし、ランキング番組は常に新しい正解を問い掛けてくる。そこから抜け出すのはそんなに簡単なことではないのではないのかも知れない。

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