電卓の陳腐化と日本のオフィス

明治時代の商人たちはソロバンくらい使えないとよい仕事につけなかったに違いない。戦中や戦後すぐのドラマをみていてもソロバンをはじいて、手書きで書類を書いているというシーンを見かける。事務作業には「ソロバン」の知識は欠かせなかったに違いない。

状況が一変するのは戦後に入ってしばらく経ってからだ。電子計算機が登場したのだ。最初の計算機は機械式だったが、徐々に電子式になり「電卓」と呼ばれるようになった。なぜ「卓」なのかというと、机のような形をしていたからだろう。それだけ重く、とても持ち運びができるようなものではなかった。

1964年にシャープが開発した電子計算機の初期型は重さが25キログラムあり、価格は50万円程度だった。月産目標台数は300台程度だった。オフィスユースの商品であり、個人に手が届くような代物ではなかっただろう。

1971年にオムロンが49,800円の電卓を開発に成功すると価格競争が激化した。1972年にはカシオが12,800円の電卓(カシオミニ)を発売する。「答え一発カシオミニ」というテレビコマーシャルを覚えている人もいるのではないだろうか。この頃から個人でも電卓を持てるようになった。発売後10ヶ月で販売台数が100万台を突破した。その後電卓の小型化競争が始まると、メーカーが次々と脱落した。残ったのはシャープとカシオだった。もはや、電卓を操れたからといって尊敬されることはなくなっていた。

電卓時代が終る兆候が見られたのは1980年代にマイクロソフトがMS-DOSを開発した頃からだった。「パーソナルコンピュータ」がオフィスに導入されるようになったからだ。当初は表計算ソフトが好んで使われた。マイクロソフトマルチプランやロータス1-2-3などが有名だ。

文章制作はさらに未開で、和文タイプのオペレータが作業を請け負っていた。日本では、パソコンとワードプロセッシングが結びつくことはなく、専用のワードプロセッサ(ワープロ)が先行した。日本の最初のワープロは1978年に東芝が発売し、価格は630万円だったそうだ。パソコンで一太郎などのワープロソフトが導入されはじめたのは1980年代の中盤頃だ。ワードとエクセルが一般化するのは、グラフィカルインターフェイスが改善されたWindows95頃からだという。もうバブルは崩壊していた。

バブル期のオフィスではパソコンを使えれば確かに就職に有利だったかもしれない。しかし、パソコンやワープロを使うのは「下働き」の仕事だった。OLや新人の役割で、正社員(いわゆる総合職)は「もっと生産性の高い仕事をするべきだ」という風潮があったのだ。生産性の高い作業とは社内の利害調整のことである。事務作業員を「事務屋」と呼んで蔑む傾向すら見られた。同じような傾向は英語にも見られる。グローバルな社会では英語くらいできなければという割には英語話者の地位は高くない。「英語屋」と呼ばれて通訳代わりに使われることもある。このため、総合職の中には英語ができてもひけらかさない人が多かった。「英語屋」として認知されると、通訳としてこき使われるからである。

新人類と呼ばれた人たちは「パソコンみたいな訳の分からないものは操れるかもしれないが、本当の仕事(つまり内部調整のこと)はできない」などと揶揄された。今では、専門家たちはスマホばかりしている若者を見て「日本の若者はパソコン離れしている」などと心配しているようだ。時代は繰り返すのである。

バブルが崩壊してしばらく経った今、電卓は100円ショップでも売られている。Amazonでは600円程度から手に入る。同じように、パソコンの地位も大いに凋落しつつある。今では20,000円も出せば立派なパソコンが手に入る。

ハローワークに行くと「入門パソコン講座」のような事業に多くの税金が投入されているが、こうした講座を卒業しても、最低賃金のパート労働くらいしか見つけられないかもしれない。欧米ではパソコンを使った労働は、もはや「知的労働」とは見なされない。最近パラリーガルの仕事を代替する人工知能が話題になった。初級の弁護士やパラリーガルという仕事すらなくなってしまうかもしれないのだそうだ。一昔前の印象で「知的労働」を捉えると、却って時代に取り残されるかもしれないのだ。

日本人は古くて面倒なものをありがたがる人が多いが、面倒なQWERTY式のキーボードは廃れて、スマホに似た操作感覚を持ったタブレット型のOSが主流になるかもしれない。「面倒なことを簡単にしよう」という思考こそがイノベーションを生むのだということを考えると複雑な気分になる。

参考文献