こびとの話 – ネット表現は難しい

江川紹子さんというジャーナリストが「Wi-Fiが故障したが2〜3日したら復旧した」とツイートしていた。プロバイダー障害であれば評判になっていただろうから、多分機械の不具合だったのだろう。その後復旧したということはハードの障害ではなかった可能性が高い。ということはソフトウェアの不具合かキャパオーバーだろう。

ただ、そのまま呟いてもおもしろくないので「小人が直したのでお供えでもしてください」というような表現にして投稿した。

実際にWi-Fi機器はしょっちゅう小さな障害が起きており、それをプログラムで修正している。小さな故障を修正しつつ今あるトラフィックを捌く必要があるので、速度を落として動作を続ける。しかしそれでも捌ききれなくなると止まってしまうのだ。動作が停止するとトラフィックが途切れる。すると余裕ができて修正できることがある。そこで「自然に復旧した」と感じられるのである。

2〜3日待つのが嫌な人は、一度スィッチを切ってから電源を入れ直すとよい。リセットすると大抵の不具合は修正される。

Wi-Fi機器のようなインフラ機械は、無事に動いても誰にも感謝して貰えない。なのに、動作が止まると文句を言われる宿命にある。中では「わたわた」と小さなプログラムが動いているのだ。実際にトラフィックを覗いてみると「この番号は誰だ」とか「この信号を送れ」などという信号が行き交っている。その動きは小人さんさながらである。

正月ぐらいは修正ロジックを書いているプログラマさんたちに感謝してお供え物をくらいしても良いだろう。

しかし、ネットの表現は難しい。その後のリアクションを見ると、小人とは、一般の人が休んでいるときに働いている「中の人」のことだと思われたようだった。正月の休みの期間にコンビニに買い物に行けるということは、別の誰かが働いているということである。最近ではそういう働き手が多いのだ。

さて、話はここから意外な方向に転換する。小人は差別用語だという人が表れたのだ。もともとは「プログラム」を擬人化するために使っていた「小人」という用語が「人」を示すものになった。それが「小さな人」を差別しているということになったのだろう。

「小人」は放送禁止用語として指定されているらしい。理由は書かれていなかったが、小人症の類推があるのではないかと思われる。そこには「白雪姫と七人のこびと」の例が書かれており「白雪姫と七人のドワーフ」と言いましょうと書かれてあった。検索すると、ディズニーは「こびと」とひらがな表示にしているらしい。真相はよく分からないが「差別だ」という指摘があったのかもしれない。

漢字だとダメでひらがなだとよいというのが、情緒を重んじる日本人らしい。ちなみに「小人症」は英語ではドワーフィズムと呼ばれるので、小人症を差別用語だと見なすならドワーフも差別である。

さて、この人はなぜこのような指摘をしたのだろう。この指摘をした人は原発に反対して福島瑞穂さんを応援しているらしい。江川紹子さんも「社会正義の味方だ」と思われているのだろう。その人が「差別用語」を使うのが許せなかったのではないかと思う。しかし、個人で「良い悪い」の線引きをするのはとても難しい。そこで「放送局が面倒を避ける為に使っている規範」がその人の正義になってしまうのだ。

外から入ってくる規範には様々な種類がある。宗教に規範を求める人もいれば「日本の伝統や国体」が正義になる人もいる。中には「原発や戦争はいけない」を規範にする人もいるだろう。正義は社会を安定させるが、時には大きな衝突を引き起こす。

正義という「大我」を暴走させないためには「小我」をうまく満たす必要がある。一方で、正義を語る人は実際には「自分が正当に扱われていない」といういらだちを募らせていることが多いのではないかと思う。

そこで「よく御存知ですね。勉強になりました」と返事をした。「御存知でしたら、もう少し教えてください」みたいなことを書いたのだが、多分この指摘をした人はそれ以上言葉について考えることはないはずだ。どうしていいのか分からなかったのだろう。「いいね」が戻ってきた。言葉に敏感なようだが、本当は言葉自体には興味がないのだろう。

しかし「あちらを立てれば、こちらが立たず」である。いわゆる「差別用語をとにかく使わない」という姿勢はプロの文筆家の嫌うところなのだ。

一律に特定の言葉を否定することを「言葉狩り」という。筒井康隆の断筆宣言(小説にてんかんへの差別表現があるとされ、批判に晒された)でも見られるように、昔から表現の自由と<弱者>への配慮は緊張関係にある。案の定(というか、意外な事にというか)江川紹子さんから直接「それは言葉狩りだ」という指摘が入った。職業文筆家としては譲れない一線だったのかもしれない。

「言葉狩り」はなぜいけないのだろうか。それは、私達が持っている差別的な感情にふたをする役割を持っているからだ。言葉さえ使わなければ、その面倒なことはなかったことになり、それ以上考えなくてもすむのである。

さて、これが「ちょっとしたユーモア」のつもりで書いた投稿が、正月に休んでいる、遠く離れた会ったことのない人の心を騒がした物語の顛末と考察である。

お正月なので「お供え物」について考察したい。Wi-Fi機器にお神酒を備えてもプログラムが飲めるわけではない。中の人も仕事としてやっているわけだから「休みの日に働かされてかわいそうに」というのも失礼な話である。結局、お神酒は自分に飲ませるものなのだ。「正月は休んで気楽に過ごしてね」というくらいの意味合いだろう。

これがなぜお供えになるのだろうか。自分が休むということは、他人にも休む時間を与えてあげるということだ。自分に優しくするということは他人にも優しくしてあげるということなのだ。結局は「小我」を満たす事が「大我」につながってゆくのではないかと思う。