ネット上で議論が成り立たないわけ

表面上「ネット上で議論をしたい」と思っている人は意外に多いようだ。だが、実際に意見を書いてみてもほとんど反論がない。傲慢にも「これだから日本人は」的なことを思ったりするわけだが、一から考えてみると意外と難しい。自分自身がディベートとはどういうものかということを良く分かっていないのだ。

そもそもディベートとは何か

日本語で調べてみてもたいした記事は検索できないが、英語で検索するとたくさんの記事が見つかる。英語圏ではディベートはスポーツの一つとして認知されているようだ。

まず、ディベートにはフォーマルなものとインフォーマルなものがある。フォーマル・ディベートにはかしこまった形式があるらしい。Affirmative(賛成)側は右に立ち、三回立論と反論を繰り返すと書いてあるものもあった。回数や準備期間にいろいろな流派があるようで、なかなか難しい。

一方、インフォーマルなディベートというものもある。まずは相手がどのようなポジションで立論するか分からないので、それを明確にする所から始めたりするそうだ。立論とポジションがクリアになったところで、反論を試みるべきだと書いてある。

インフォーマルなディベートは「意見交換」の場であって、喧嘩・競技・意思決定のいずれでもない。また、相手の言っていることに納得ができないからといって同じ話をいつまでも蒸し返してはいけない。意見に対して反論しても良いが個人攻撃はよくない。

「国会議員も見習って欲しい所だ」と書きたいのは山々なのだが、意外と英語でのディベートを練習したという人も多いのではないだろうか。政治家志望者の必須科目だとみなされているので、大学の弁論部出身の議員も多いはずだ。また、弁護士も弁論術を使う。それでも国会議論が口喧嘩にしか聞こえないのは残念なことである。

ネット上ではディベートは成り立たないようだ

さて、ネット議論である。今回参加したのは2つの議論だ。1つは緊急事態条項に関したもので、両論を並べて「どう思いますか」と言っている。普段のツイートから判断すると、書いている人は緊急事態法賛成派だ。背景には「中国の軍事的台頭」がある。改憲議論は「左右対決」になっているので、フレームを崩すことが大切だと思う。そこで「大地震に際して自民党が作った緊急事態条項を民主党が使ったら」という立論をしてみた。

だが、フレームを崩してしまうと、ほとんどの議論が無効になってしまう。これまでの反発が使えなくなってしまうのだ。そこで「参考になりました」という返事が来て終わりになってしまった。ディベートのお約束としては「立論の前提が違う」という反論になるはずである。緊急事態条項が重要なのは軍事的攻撃や外国に煽動された不心得なデモ(ちなみにSEALDsなどのこと)に対応することであって、政権に就く覚悟がなかった民主党が政権に就くことなど二度とないという反論になるはずである。

もう一つの議論は「愛国心」についてである。長島議員をからかったようなツイートをしたら「愛国心は大切」という反論が来た。そこで「長島先生のような立派な保守の政治家が保守を善導すべき」と書いたところ、横から「愛国心で善導なんかできるわけないだろう」というような反論が入った。その人が「愛国心と平和は両立するか」と問い掛けられたわけだ。右翼を論破しようと思ったのかもしれない。

議論をクリアにするためにはまず立論をしなければならない。その為には「愛国心」と「平和」を定義した上で、それが両立する根拠を示す必要がある。時間をかけて書きたいが、あまり長くは待ってくれそうにないので30分をメドにして立論した。

相手から来たのは意外な反応だった。宗教を持ち出したことで「ドメインが違う」と見なされたようだ。宗教はよく分からないから反論できないというのである。相手のプロフィールを見たところ「安倍政権は危ない」というブログを書いている人だった。自民党は保守ではなく極右だという。こちらもフレームが固定されていたのだろう。議論を円滑にするためには「愛国心」とは、安倍首相がいうような(いいそうな)意味の愛国心でなければならなかったのだ。子供を戦争に送り出すのに旭日旗を振るような愛国心だ。しかし、そのフレームで愛国心と平和が両立しないのは当たり前だ。戦時の愛国心だからである。

この場合議論を進めるためには「アベの愛国心は危ない」くらいにするべきだろう。ただし、これが議論になるかは分からない。価値判断なので人によって印象は異なるだろう。この手の議論はネット上に氾濫していてあまり面白みがない。

ディベートが成り立たない理由を考えてみた

たった二つのサンプルで総論するのは危険かもしれないが、日本で行われている「議論」というのは、ロジックではなく、フレームのコンペティションだということになる。フレームはいわば仮説なので、前提が狂うと使えなくなる。

日本でディベートが成り立たないのは、日本文化が探索を前提にしていないからだろう。サンプルや型というものがあり、それを模倣するのが日本文化だ。「考える」のは型に習熟した後だ。唯一の例外は外から圧力がかかった時だ。極力変化を避けるのが日本式と言えるのかもしれない。

型の習得がより重要視されるので探索型のディベートが成立しなかったのだろう。日本にもディベートを持ち込もうという人は多くいたが、その度に「型」が温存されるだけで広まらないのだそうだ。そしてまた別の型が輸入されるという状態が続いているということである。

ここで浮かび上がる最後の疑問は、自分で考える文化がないのに、なぜ個人が確固たる意見形成ができているかということだろう。

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