消費されるニュースとブログメディア

オバマ大統領が広島を訪問するニュースが大きく報道された。これを見ていきなり「なぜ、オバマは謝らないんだろう」と考えた人が多かったらしい。検索での流入がリアルタイムで増えたのだ。そこでそれをタイトルにしたエントリーを30分で書いたところ、流入があった。

本来ならば「今回の歴史的な訪問を考えるきっかけにしてほしい」などときれいにまとめたいところなのだが、そうはならないだろう。テレビ中継が終わって流入はぴったりと止まった。NHKはニコ生のようにTwitterの反応を流せば面白かったのかもしれない。ニュースはその場のイベントとして共有されて、そのまま忘れされれてしまう。ユーザー(というのか視聴者というのか)はニュースに反応して消費したら、捨ててしまうのだ。その意味ではニュースはチューインガムに似ている。後には何も残らない。

もう一つ面白いのは検索ワードだ。本来なら「なんでオバマ謝らないんだよ」というのは、友達や家族に向けての言葉だろう。そういう話をする相手がいないことになる。代わりに、ソーシャルネットワーキングサイトで似たような人をフォローし、エンジンで似たような意見を探すのではないかと考えられる。本来の集団主義的な指向が崩れつつあるのではないかと考えられる。

これが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ユーザーの時間は限られており、考えなければならないことはたくさんあるのだろう。いずれにせよ、送り手になる人はこれを現実として受け入れる必要がありそうだ。

そもそも「なぜ、オバマ謝らない」で検索した人がいるのだろうか。もともと広島・長崎での謝罪がなかったのは、アメリカに占領されアメリカを責めることができなかったことが出発点になっている。敗戦国なので戦争犯罪として断罪することもできなかった。また、物質的な豊かさに圧倒されて複雑なあこがれを持つようになった日本人も多かった。その上で被害者たちは苦しみ抜き、最終的に許すことを決めたわけだ。その一方で多くの日本人はそれを天災のように捉えることにした。決して他人ごとだったわけではなかっただろう。多くの都市が空襲に会っているからだ。

現在「オバマはなぜ謝らないのだろう」という疑問を持つ人が出てきたのは、占領の記憶が薄れ、アメリカが特別な国ではなくなりつつあるからだろう。そもそも、日本とアメリカが戦争をしていたという認識さえ、確かに共有されているかどうか怪しい。マスコミはある思い込みのもとに作られるので、こうした素朴な疑問や足下で起りつつある変化を見逃してしまうのだ。

一方で、個人のブログメディアは細かな変化を感じ取り、数十分でアップできてしまう。組織の意見に縛られることはないし、事実誤認が見つかれば書き直せば良いのだ。