トルコのクーデター未遂と日本の立憲主義の破壊

磯崎議員の「訓示的憲法論」に腹を立てていたら、トルコでクーデター未遂が起った。強権的で親イスラムのエルドアン大統領の政権運営に怒った軍(軍隊は世俗主義の守護者として知られる)が起こした事件だったようだ。判事が解任されたことから、司法の中にも協力者が多かったことが推察される。平たく言えば「立憲主義が破壊された」として怒っているのである。

これを見て、日本の憲法改正運動について考え、将来に対してかなり悲観的な見通しを持った。

エルドアン政権は労働者階級から支持されている一方で、知的エリート階層からの人気は高くないようだ。つまり、労働者階級の人たちは、法律の支配を通じて筋道を立てて政権運営してゆくよりも、一人の英雄が問題を解決してゆくことを好ましく見ているということになる。

なぜエルドアン大統領は労働者階級に人気が高いのだろうか。エルドアン大統領はイスラム主義的な発言(詩を朗読したそうだ)のために逮捕されたことがあるとのことだ。政教分離を定めて西洋化を図ったトルコでは政治家のイスラム主義的発言は禁じられている。それが却って伝統を好む(逆にいうと変化について行けない)人たちの支持を集めているものと思われる。「まじめに一生懸命働く」人たちはエルドアンと「伝統的な価値観」が好きなのだ。

もう一つの原因はトルコがヨーロッパへの接近を諦めたことだろう。トルコが民主化・近代化したかったのは、それが「お金持ちクラブ」への入会証になると考えたからだった。トルコのいじらしい試みは失敗に終わった。EUはイスラム教国にメンバーシップを与えたくないからだと考えられる。ヨーロッパになれないなら、もう民主化は必要ない、と多くのトルコ人が考え始めているのだろう。

「憲法を作って国民との間に約束を交わす」という立憲主義は、西洋的な民主主義の基本の一つである。しかし、ヨーロッパ化を諦めてしまえば、もうそのようなものは必要がない。憲法は好きなように解釈すればいいし、文句があるならば憲法を根こそぎ変えてしまえばよいということになるだろう。

もちろん、日本に合わせて状況を読んでいるので、これが現代の日本の状況に符号するのは当たり前なのだが、それでも重なるところが多い。イスラム主義といいながら、結局のところ「エルドアン大統領とその支持者が考えるイスラム」であって、伝統的なものかどうかは分からない。これは日本の「伝統的な価値観」とされているものが、実は明治政府の作った神道論(もともとの神道的な伝統から一神教の影響を加えて焼き直した物だ)の焼き直しに過ぎないのと同じことである。

ではこの「力強いリーダーシップ」は何をもたらすのだろうか。

当初国民から支持の大きかったエルドアン(当時は首相)だが、次第に強権的な動きを示すようになる。ジャーナリストを締め上げたり、SNSを廃止するなどと脅しをかけている。日本の状況とトルコの動きを重ね合わせる人が多いのはこのためだ。強権的な政治は批判を集め、経済的にも行き詰まったために与党は支持を失った。

そこでエルドアン大統領がやったことは敵を作り危機を煽ることだったようだ。安定を求めた市民はエルドアンを支持し、与党は再び勢力を盛り返す。しかしその代償も大きかった。各地でテロが頻発するようになり、最終的に軍のクーデター未遂事件を招いたのだ。今後エルドアン政権はますます強権的な姿勢を強めるものと思われる。治安維持のために市民生活は犠牲になるかもしれない。

基本的な構造は次のようなものだ。庶民は知的エリート層に対して反感を持っている。それを利用する形で「伝統的な価値観」を持ち出す勢力が表れる。当初強いリーダーシップは問題を解決するように見えるのだが、徐々に行き詰まる。そこで強権的な姿勢を強め、敵が作られ、国が分断される。国が混乱すれば、経済的な投資は滞り、観光客も減るだろう。経済にとっては打撃である。強権政治で市民生活が制限されれば外国からの投資はさらに減るに違いない。

背景にあるのは問題の複雑化と不確実性の増加だろう。変化に耐えられない人や予測がつかなくなって不安になる人が増えると強いリーダーシップを希求することになる。法の一貫性よりもその場その場の一貫性が求められるのだ。これが機能しているうちはよいのだが、最終的には強権的な支配で押さえつけることになる。

日本の「立憲主義破壊」闘争の背景にあるのは、こうした知的エリート層と大衆層の闘争なのだと言える。知的エリート層が一貫した法の支配を望む一方で、大衆層はその場その場が一貫していることを求めている。そのために利用される権威が「伝統的価値観」という分かりやすい規範なのだが、少し見ただけでそれはデタラメなものだと分かる。だが、それは「変化に対する拒絶」でしかないので、デタラメでも気にならないのだろう。

憲法議論はもはや「憲法第九条がどうだ」というようなフェーズにないということになる。立憲主義を守るか、それとも憲法を空文化して民主主義を脱するかという二者択一なのだ。こうした変化は徐々に進行する。当事者である政治家がこのことに気がつくのはかなり先のことになるのではあるまいか。その場の安定感は得られるかもしれないが、高い代償を支払うことになるだろう。