そりゃないよ鳥越さん……

鳥越俊太郎さんの「都政には興味がなかった」発言が周囲を戸惑わせている。演説では「それなりに勉強しますよ」と言っているらしい。これは「今は政策を提示しないが後でお知らせするから白紙委任してくれ」と言っているのと同じだ。だが、支持者たちはそれでも平気らしい。安倍首相が同じことを主張したら、ツイッター上で大騒ぎになるだろう。

ここから分かるのは、日本人は、契約や約束といったものをあまり信じないということだ。左派と右派という表面上の違いはあるものの、本質的には同じ人たちなのである。

そもそも、鳥越さんが出馬できたのは本人にこれといった政策がなかったからだろう。民進党都連は当初長島昭久氏擁立を画策して失敗した。共産党との連携に不安があったからだ。一方で宇都宮健児氏擁立も見送られた。こちらは社会主義的政策を嫌う民進党右派から避けられた。「野党連携」どころか民進党内でも意見をすりあわせることができない。残りの選択肢は「知名度があってこれといった政策も意欲もない人」ということになる。両者の主張を適当に混ぜ合わせて「政策」として提示できるからだ。その意味では原稿を読んでくれる鳥越候補はうってつけの人材なのだろう。

民主主義や選挙を「有権者と政治家の間の契約だ」とするとこの状況は全く説明ができない。つまり、異なった原理が働いていることになる。キリスト教やイスラム教は神との契約なのだが、日本の伝統では特に契約を結ぶ必要はないと考えられるのだ。好きなときに祟ったり、祟られたり、頼ったりするのが神様なのであって、特に契約を交わす必要はない。ある意味、日本のほうがおおらかである。

ツイッターで流れてきた文章などを読んでいると、選挙や政治活動に「契約」という概念が希薄だということは多くの知識人を悩ませてきたようだ。

どうやら個人主義ではない「集団主義」に基づいた行動原理があり、論理を嫌うという点までは到達しているようで、その後には様々な説があるらしい。ある人は「空気」を持ち出し、別の人は「ケガレ」という概念を使っている。

面白いことに知識人たちはこれを後進性の現れだと考えているらしい。西洋的な個人主義に基づいた論理的な解決策こそ先進的で正しく、日本人のように契約の概念を受け入れられない人たちは後進的で遅れているというマインドセットに陥りがちだ。「どうして、日本人はこうなのか」という問いの裏には「なぜ、日本人は西洋人のようになれないのか」という煩悶と焦りがあるようだ。

こうした劣等感の裏返しが、例えば「左翼は知識人のものだったのに、丸山以降劣化した」という言質に結びつく。自分たちは論理的な解決策が提示できるぞという前提があるのかもしれないが、選挙や議会運営を見る限り、そのような論理的な政治は見たことがない。論理はむしろ「みんな」を納得させるためにお題目として利用される。論理が破綻していてもあまり気にしないのだ。

民主主義というものはそれなりに学術的なバックグラウンドがあり、制度化も進んでいる。民主主義は非常に明示的に作られた体系だ。一方、集団主義的な意思決定には暗黙知的な部分が多く当事者の日本人でもどのように意思決定が行われるかということが分からない。しかし、それが後進的ということもない。集団の意思決定はかなり複雑なプロセスだ。

確かに後進的ということはないのだが、集団主義的な意思決定には明確な欠点がある。鳥越さんは「みんな」の言うことを聞くと言っている。だが、その「みんな」の中には自民党の人たちは入らないだろう。一方、自民党も熟議でやって行くと言っているのだが、共産党の人たちが何か言っても横を向いている。共産党は「みんな」には入っていないのだ。

集団主義的な問題解決はメンバーシップに疑念が生じると崩壊する危険が高いのだ。「不当に扱われた」と感じた人は猛烈な抵抗を見せる。「俺に話が通っていない」という人が抵抗勢力に変わるというのはよくある話だ。永田町まで行かなくても、職場や町内会にいくらでも存在する。自治会などは10年くらい同じことを言っている人たちがいる。だから組織を円滑に運営するためには、勝ち負けを作ってはいけないのである。

そう考えると、日本には二大政党制は似つかわしくなかった。二大政党制は二つの政策を見比べてどちらか「優れたほうを選ぶ」という選抜方式である。コンペに負けたからといって人格が否定されるというものではないのだが、日本人はこれに耐えられなかったのだろう。

自民党が非民主的な憲法草案を出し、報道機関に圧力を加える原因は、2009年の選挙で民進党に負けたからだ。「議論をして負ける」ことに自民党は耐えられなかった。

逆に現在「負けた側」である野党勢力は首都東京に集まり、都政の政策ではなく安倍首相批判で盛り上がっている。敵の存在は運動を盛り上げるが、東京都が抱えている問題は放置されたままである。

そのもとをたぐって行くと、日本人の意思決定プロセスを「後進的」と決めつけて、無理矢理アングロサクソン流の制度を導入してしまった1994年の小選挙区制度改革に行き着く。だが、制度を変えたからといって国民のマインドセットは変わらないのだ。