自民党主導の憲法改正にはノーを言おう

さて、憲法を改正すべきだという勢力が2/3を超えるということが話題になっている。そこで、憲法改正を政治的なアジェンダにしようという人たちがあれこれ言い出した。維新の(現在の正式名称は何だったろうか)の馬場さんという方は「第九条は除いて、各党が案を出すべきだ」と言っている。自民党磯崎議員はTwitter上で「新しい憲法は国民に国柄を示すべき物だ」という運動を展開した。

まあ、よく考えてみれば護憲政党は社民党と共産党しかないわけだから、2/3はとうの昔に超えている。単に内部で利害調整が進まなかっただけの話だ。日本人は空気に弱いなとつくづく思う。

昨今の「立憲主義運動」は、憲法は国民が政府を縛るものと説明する。ではなぜ国民が望んでもいない憲法改正を政治家が主導したがるのだろうか。国会議員は縛られるのが好きという仮説も成り立つがそうではあるまい。多分、彼らは憲法について「法律と同じように国民を縛る物だ」と考えたがっているのだろう。

これはいろいろな意味え間違っている。そもそも立憲主義は国民が政府を「縛るために」作られたわけではない。これは我々全体が従うべきルールを双方の合意のもとで取り決めたものである。と。同時に法律は国民を制限するために政府が与えたものではない。これも取り決めだ。つまり、憲法も法律も「ミューチュアル(相互的・お互い様)」なものであって、どちらかがどちらかを支配するという性質のものではないのだが、ミューチュアルというのは日本人には受け入れがたい概念なのだろう。

特に、自民党憲法草案には問題が多い。国民が従うべき規範(これを国柄と呼んでいる)を与えるという意図があるのだが、これは戦前の国体運動の残滓を拾い集めた物だ。「人間は家族を大切にしなければならない」と始まり「日本は天皇を中心に頂く家族である」となる。結論は「だから日本人は天皇を父親のように敬わなければならない」と続くのである。

いったん事の是非は置いておく。

憲法は合意形成のプロセスを「みんなで」取り決めたもので、国民から政治権力に対しての要請という形を取っている。一方、国柄の提示は天皇から国民に下賜されるものである。故に、憲法に訓示的な要素(家族を大切にしましょう)と入れるのは原理的に正しくない。もしこれを実行するとしたら、天皇の政治権力を復権させるか、日本を自民党が指導する一党独裁国家であるという規定をしなければならない。その上で憲法とは別建てに規範集を作る必要がある。そうしなければ、どれが法律を縛る拘束力を持ち、どれが訓示的な取り決めなのかが分からなくなってしまう。おのおのの条文に「これは規範だ」とか「これは絶対だ」と書いているわけではないからだ。

世論の反発が強まったので、磯崎さんは「あれは単なる議論のたたき台の草案であって、あれがそのまま国会議論に乗る訳ではない」と言い出した。しかし、問題は項目の内容にはなく、コンポ員的な設計思想に関わる物だ。

規範集のような性質の物を提示しておきながら、国民主権は遵守するし、立憲主義は守ると言っている。嘘をついている可能性もあるのだが、実際には自分たちがどのようなものを出したのかよく分かっていないのではないかと思われる。こういう人たちは実に厄介だ。繰り返し話を蒸し返してくるからだ。

もちろん憲法に訓示を書いては行けないという取り決めはないのだが、そうであればそのことを明確にすべきだろう。議論の根本が揺れ動けば、それに続く議論がすべて揺れ動いてしまう。

もっとも「自民党改憲案にノーといおう」という論は、憲法を時代に合わせて変えて行くべきだという考えに基づいている。憲法改正案は最終的に国民の信任が必要だ。議論が錯綜して反対意見が増えれば「よく分からない」という人は「とりあえずノー」と投票するだろう。いったん失敗が確定してしまうと、その後の憲法改正がうまく進まなくなる可能性が高い。

その点、憲法第九条擁護派は気が楽だ。とりあえず改正議論全体を拒否すればよいからである。自衛隊の存在を無視しさえすれば(あれは軍事組織ではなく、あくまでも災害復旧ボランティアなのだ)平和に暮らして行くことができるからである。

それにしても「法律のプロ」であるところの自民党の人たちが集まって、根本的な設計思想がはっきりしないものを作ったのは何故なのだろうかという疑問がわく。そう考えると現在の国会は立法府としての機能を失っているのかもしれない。

 

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