東浩紀さんの思い出と日本の言論界

さきほどのエントリーで「日本人が発言すること」について考えた。一般人は発言するべきではないという認識があり、意思決定に関わる発言は特権と考えられるのではないかというのが結論だ。しかし、日本が脱開発途上国化する上で、一般人が自分の意見を形成するのは大切だと思う。モデルのない先進世界には正解はなく、模索が必要とされるからだ。しかし、意見形成するために考えをまとめるのはなかなか難しい。

これについて考えていて東浩紀さんの名前を思い出した。過去に投瓶通信という記事を書いたことがあるのだが、Twitterでご本人から「くだらない」という呟きを頂いた。それにつれてページビューが伸びた。たくさんのフォロワーがいるのだろう。なぜくだらないと言われたのかはよくわからない。

「投瓶通信」は浅田彰さんというバブル期に流行った方について述べている。浅田さんと言えば、学生時代に流行した(多分ちょっと前に流行していた)「ニューアカ」の騎手だが、全く読んだことはなかった。その界隈の人たちを怒らせる内容を含んでいるのかもしれないが、読んだことがないのでよく分からない。ただ、大人になっても「デリダ」や「吉本隆明」などを引き合いに出す人は結構いたので、当時流行っていたのは間違いないだろう。

東さんの呟きにはいっさい理由付けがなかった。ただ「素人は黙っていろ」という上からの呟きだった。当時Twitterは今ほど流行っていなかったので、多分ソーシャルメディアでシロウトがうかうかと論評するというのが耐えられなかったのではないかと思った。論評というのは限られた人たちができる特権だという意識は一般庶民だけではなく言論人の間にもあるのだろうと思う。

言論マスターにならないと意見を発表できないのだが、他人の目に触れないで、なぜマスターになれるのだろうか。よく分からない。

日本の言論界は長い間意思決定からは排除されていた。意思決定は言論ではなく複雑なグループダイナミズムで決められ、「そのコンテクストにいる」ということが重要だったからだ。そこで言論界は「プロレス」的な状況に活路を見いだした。

子供の時代に北杜夫、遠藤周作、筒井康隆などを読んだが、そこには文壇バー(銀座にあるらしい)の様子が書かれている。「野坂昭如が暴れている場所」みたいな感じだ。私小説を脱却した日本の出版界では、文壇バーで夜な夜な作家同士が殴り合うことでコンテンツを作っていた。野坂昭如がテレビカメラの前で大島渚監督を殴る(あるいは逆だったかもしれない)というのがニュースになったりした。

北杜夫のように躁鬱病を煩っている人がその様子を面白おかしく書いたりする読み物もあった。最近相模原で障害者施設が教われる事件があったが、政治家に手紙を書いて主張を伝えたりするのは北杜夫の本を読んでいるようだった。あれで「ピンと来た」人も多かったのではないかと思う。後の分析で津久井の容疑者も「双極性障害なのではないか」という見立てをする人が表れたりしている。北杜夫はマンボウ・マブゼ共和国を設立し、借金して家族を困らせていた。そのように日常生活に収まらない騒ぎを起こすことが作家として重要な資質だと思われていたわけである。

これをテレビ的に仕立てたのが田原総一郎だ。言論空間で殴り合いをやらせたのが「朝まで生テレビ!」である。この後の世代に「ケンカをしかけて見せる」行為が言論なのだという印象を与えることになったのではないかと思う。

ショーマンはけんかしてなんぼという姿勢は今でも残っている。SMAPは解散騒動についてケンカしろという人がいるが、これも「言葉は嘘をつけるがケンカには嘘がない」という認識があるからだろう。ただし、ケンカは感情を発散させる効果はあるが、問題解決には役に立たない。

「朝まで生テレビ!」が残した悪いレガシーは、言論が合意を形成し、問題解決のためには時には妥協するという文化を阻害した点にあると思う。ここから出て来た政治家が「TVタックル」などで自民党を叩いたことが民主党躍進の原動力になった。「コンクリートから人へ」というスローガンが破綻することは最初から分かっていた。藤井元財務大臣が「財源が出なければ謝れば良い」と言っていたことからも明らかだろう。

「相手をなぐって聴衆の耳目を集める」というのは日本の言論界の習い性になっていると考えないと東さんが全く無名である人のブログに背景についての説明を省いたまま「くだらない」などというコメントを寄せる理由が分からない。

前回のエントリーでは「先生と生徒型」の言論空間ができると、生徒に属する人たちが意見表明ができず、合意形成が成り立たないという予測を立てた。これが人民裁判的な状況を生み出している。まとまった意見が形成できないから、さらに乱暴な形で発散されるのだ。さらに「一般人は黙っておけ」という圧力が働くことも予想される。「仕事でくたくたになって帰ってきた人が、堂々と意見を述べる他人」を疎ましく思うという姿勢だ。

一方でそのような空気を抜け出した人の中にも特権意識があったようだ。Twitterが普及した現在ではこういう特権意識はなくなったように見えるが「プロによる論評のみを載せた」とか「識者だけを集めた」というネット言論空間が生きている。なんとなく、江戸時代の水利関係や共有地を巡る論争が未だに生きているのではないかと感じられる。しかし、よく見てみると紙媒体やテレビから排除された人だったり、政治の意思決定から離脱した人だったりする。なかなか屈折した思いがあるのかもしれない。そういう人たちは「上」を叩きつつ、後続が出ないように「下」も排除するのだ。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です