浪岡中のいじめ問題 – 自殺者は被害者なのか

ご両親が娘さんの名前を公表されたようだ。

「浪岡中・犯人・名前」で検索してこられる方へ。この文章には、犯人の名前に関する情報はありません。で、調べてどうするんですか?


またいじめについてのニュースを読んでしまった。今度は青森県の浪岡中学校だという。このニュースを読んで、いじめによる死はなくならないのだろうなあと思った。学校側はトラブルは認識していったがそれをいじめだとは認識していなかったという。一瞬何を言っているのかよくわからなかったのだが、要するに「自殺しても事件化しなければいじめではない」という姿勢を示しているようだ。死ぬまで表面化しないのだから自殺は防ぎようがないのだ。

今回の考察にもつらい部分がある。公共の場で堂々と主張できないような内容だし、家族を失って悲しんでいる当事者にこれをぶつけることはとてもできそうにない。事実、この文章を読んだ人から「自分の意見を通すために遺書の内容を曲解している」という指摘が来た。指摘はコメント欄にある。どちらが正しいのかという<議論>が背景にあるのだと思う。

こうした指摘を受けても「それでも」と思うのだ。正しさというものが作り出す短絡さは多くの人を苦しめ、あるいは取り返しが付かない結果を生み出しかねない。その苦しみから救ってくれる人は誰もいない。ただ、本人だけが自分自身をそこから解放できるのだと。

いじめられる人は「弱者だ」と仮置きされることが多い。テレビの報道を見る限り自殺の練習をさせられたとか万引きをしないと言って殴られたいうような陰湿ないじめが行われていたらしいことが伺える。これだけを見るといじめられた生徒は一方的な被害者だったような印象を持つ。いわば群れの中で一方的に搾取されるような存在である。

もし、いじめられるものが弱者だったら、誰かにその窮状を訴えるべきだということになる。先生がなんとかしてもらえるように訴えるべきで、もしそれができないとしたら教育委員会に訴えるなどというのが効果的かもしれない。だが、そもそもアサーティブな生徒ががいじめられるはずはない。手を出すと面倒だからである。このようにすればいじめのコストを高めればいじめはなくなるだろう。

だが、こうしたアサーティブさは問題を解決してくれるのだろうか。このケースでは、亡くなった生徒の遺書が残っているのだが、黒塗りになった生徒◉との間に「どちらが正しいのか」というような構造があったような印象を持った。ここが今回引っかかったところである。

各紙の話を総合すると一年生の時にバレー部に入っており良い成績を残したが、◉たちのグループとの間に対立があり部活を辞めた。遺書では「頑張って◉と7名で優勝を狙ってほしい」と言っている。教室の片隅で閉じこもっているようなタイプではなく、一年生のときには学年生徒会会長を務めていたという。

「せいぜい」頑張ってと入れていたが、遺書には「せいぜい」とは入っておらず、したがって文意を大いに捻じ曲げているという指摘がありまましたので、取り除きました。また主観を客観化する意図はありませんので「印象を持った」などとしています。ただし、そういった印象を持つことは<正しくないから>けしからんというご意見はあるかもしれません。コメントには「原文を当たった上で考えて欲しい」ということがかかれていますが、その点については同意です。(2016/10/18)

当人の中にも「一方的にいじめられる弱者ではない」という認識があったのではないかと思える。テレビの情報が確かなら完全な虐待だが、当人は特別ひどい虐待はないと逆に否認している。

この遺書だけから類推すると「アサーティブさ」の方法が間違っているということになる。死んでしまえば、◉が悪となり、放置した学校は間違っていたということになるからだ。自殺が全ての問題を解決する手段になると考えていたとしたら実に悲しいことなのだが、その可能性が排除できない。

この場合先生がやるべきだったのは、いじめの防止ではなく、絶対的な正義などないということを双方に納得させることだったということになるのではないか思った。「どういじめを防ぐか」という視点ではこの問題は解決できないのではないか。それは被害者と加害者を作ることになり、加害者が「間違っている」という印象を作るからだ。

だから周囲が「いじめられる人を被害者だ」という認識を持つのは危険かもしれないと思う。いじめられる側にも問題があるという認識に立たない限り、たんに「アサーティブになれ」といじめの被害者を説得することはできない。さらに、結果的に人が亡くなったケースだけを特別視すると別の意味で死を利用することが可能になってしまう。

これを防ぐためには「自殺者を出したことは恥ずかしいことだ」という意識を捨ててオープンな調査をすべきだと思う。だが、人が一人亡くなっているわけで、これはなかなか難しいことだというのは十分に理解できる。

実際に掲示板では犯人探しが始まっている。中には浪岡中学校出身だというだけで犯人扱いされるから報道機関にいじめた奴の名前を通報しろという人までいる。その他大勢は「誰がいじめたのか実名を晒せ」と書き込んでいる。すでに実名が何人もでていて(もちろん加害者かどうかはわからない)これがさらなるいじめに発展するかもしれない。

ある意味、内戦のような精神状態になっているのではないかと思う。いったん命に関わる問題が起こると、あちら側とこちら側という意識が生まれ、統合が難しくなってしまうのである。自殺やいじめについて考えるためには、実は内戦が止められなくなった国や民族がどのような末路をたどるのかを考えると良いかもしれないと思った。

“浪岡中のいじめ問題 – 自殺者は被害者なのか” への4件の返信

  1. 公開されている遺書の画像には「せいぜい頑張って」なんて、捻くれた表現は無いんですが…。

    わざわざ「」で括って、さも引用かのように書いていますが、原文を確認すると、この部分はあなた自身の印象を加味した全く意図の違う文章に感じました。
    自分の主張を強固にするために、遺書の内容を曲解し、さもそれが事実と読み取れるように記述するなんて、理解に苦しみます。

    このエントリを読まれる方は、公開されている遺書を実際にご覧になってお考えいただきたいと思います。

    1. おそらくお気に召すような修正にはなっていないとは思うのですが、対応しました。
      ご意見ありがとうございました。

      1. ご対応された箇所を確認しました。

        記事執筆時点ではわからなかったことであろうと推測していますが、遺書における件の「全国大会」は学校の部活動ではなく、学外活動である黒石よされの踊り手としての記述であったことが、新たなニュースにより分かっています。

        部活動を辞めた流れで先に指摘したコメントが入っていますので、辞めた部に悪態をついているような印象を受けますが、最新の報道を鑑みればそうではないことがわかると思います。

        特に修正を望む訳ではなく、この記事を読まれた方に‘書き手の意図によって事実関係の見え方が大きく変わってくる’ことをご留意いただきたいと思い書いた次第です。

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