私の方が正しいという戦争

浪岡中学校のいじめの記事への検索での流入が増えた。関心が強かったということなのだろうが、その関心の高さは必ずしも歓迎されるようなものではないかもしれない。「自殺を防ぐには」という用語での検索が増えたわけではない。「犯人の名前」という用語で検索されているのだ。多分、ネットで犯人探しが行われているのだろう。学校の生徒は誰がいじめたかを知っている(※同学年でバレー部に入っていった子達だということは特定されている)ので、学校関係者ではない人が検索していることになる。

このいじめは部活での対立が元になっている。なんらかの対立があり自殺した子がやめた。それでも対立は続き、テレビの報道(※ミヤネ屋のスクリーンショットがネットに出回っている)ではかなり陰湿ないじめが展開されたらしい。

一方で遺書を読むとなく亡くなった子も「自分が一方的に被害者だった」という自己認識を持つのを拒否していたようだ。遺書では「疲れた」といいつつも、いじめた相手を糾弾している。

学校側はこの状態を放置し(ミヤネ屋のアンケートが本当なら人権侵害を放置していたことになる)た挙句、いじめとは思っていなかったと主張した。管理責任の及ばないところで生徒が勝手に行ったと言いたいのだろう。テレビ局としてはこれを否定することで、視聴者にカタルシスを与えようとしている。いじめ報道としてはお約束のフォーマットだ。学校は問題を放置して否認することで周囲に「もっと分からせなければ」という正義に火をつけている。そればかりか亡くなった生徒にも「何が何でも告発しなければ」という動機を与えている。

親も「いじめがなくなるように」という名目で遺書を公開しているのだが、実際には「娘は悪くなっかった」という正義の主張になっている。つまりは、いじめた友達と放置した学校が悪いということだ。形式上は報復感情は表に出ていない。

こうしてこの事件は地域の大騒ぎになった。学校関係者は誰がいじめたかがわかっているわけで、遺書で名指しされた側(黒塗りにはなっているが)たちがいじめられることになるだろう。転校することもできない。浪岡中から来たというだけで被疑者扱いされてしまうからだ。掲示板には「私たちが疑われる前に犯人を見つけ出そう」という書き込みも見られた。青森市に吸収されたこの街にとっていじめは地域の恥なのだ。

「いじめを防がなければならない」という題目は忘れられ「人を一人殺しているのだから、いじめられても当然だ」という他罰的な感情に火をつけている。

もともとは小さな部活の「どちらの言い分が正しいのか」という問題だったのだろう。それが大勢の正義を巻き込んで、極めて大掛かりないじめに発展した。正義という感情はこのように燃え上がると戦争に近い状態を生み出す。

確かにいじめはいけないことなのだが、死に一発逆転の効果を与えてしまってよいのだろうかという疑問が湧く。これは新しいいじめを生むだけでなく、抗議の自殺という解決策に高い価値を与える。つまり、対立に没頭している人に「死ねば注目してもらえる」というオプションを与えてしまうのだ。

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