長谷川豊氏はなぜ仕事を失ったのか

「透析患者は死ね」と書いた長谷川豊氏が大阪でのレギュラー番組を2つ失った。なぜ、彼は仕事を失うことになったのだろうか。そして、それは「良い」ことだったのか考えてみたい。

氏が指摘するように日本の医療福祉制度は崩壊しつつある。それは社会主義化が進んでいるからだ。政治家も有権者も制度の不具合に気がついていないか、知っていて見ない振りをしている。ということで何らかの形で医療に触れた人なら誰でも警鐘を鳴らしたくなる。しかし、普通の形で警鐘を鳴らしても誰も振り向いてくれないので、ショック療法に頼りたくなる気持ちもよくわかる。ある種のリーダーシップがそこにはある。

だが、実際に問題になっているのは、形式にさえ合致していればいくらでもお金を引っ張ってくることができる制度そのものにある。医師も食べて行かなければならないので、効果が出ようがそうでなかろうが、形式に合わせることを優先させる。最近の分析によれば、医師は「関東軍化」しているということになる。

ここでいう「関東軍」とは、専門性はあるが社会からは無視されている存在である。その場にあった最適解を模索するのだが、視野が狭いので全体解は持たないし、リソースがないので最適解があっても実現できない。かといって専門家がいないとオペレーションは成り立たない。故に専門家の暴走は全体のシステムを破綻させることになる。

医師の場合、診断をしないで、いくつかある累計の中に人を押し込めることがある。累計に合わせて申請書を書けば、補助金が貰えることもある。問診が客観的な数値に基づくもの(最近ではメタボリックシンドーロームなどが有名だ)であれば躊躇なく機械的に振り分けて薬を処方するし、主観的なものなら「例外」を無視して診断を下すことも珍しくない。また、チューブにつないでいつまでも延命させるということも行なわれている。これもガイドラインに沿った対応なのだろう。

「関東軍」の暴走の背景には2つの原因がある。

1つの問題はジェネラリストの消失だ。日本人は他人に興味がないので、最初から他人を作らない企業制度を作った。それが数年おきに専門を変えさせる「正社員」である。正社員が成り立つためには終身雇用がなければならない。終身雇用が崩壊したので、ジェネラリストがいなくなり、従って専門家が「暴走」するようになった。よく「就社ではなく就職」と言われるが、それは日本人をよく知らないからである。日本人はチームワークが嫌いなのだ。ジェネラリストがいなくなると急速に部分最適化が起こる。

また、日本陸軍のようにジェネラリストが「管理や作戦の専門家」になっってしまい暴走することもある。正社員が維持できなくなったということもあるが、非正規雇用が増えると正社員は「自分たちには関係ない」と考えるようになり、結果的に企業の崩壊を招くのだ。陸軍の場合は末端の兵士は徴兵される非正規雇用であり、最終的には無理な責任を負わされ食料を補給してもらえずに餓死することになった。

もう1つの問題はリーダーシップの不在だが、もともとリーダーを要請するという考え方がないので、専門家の問題として捉えることができる。責任者ではなく調整する専門の係になってしまうのである。

医療問題の解決が難しいのは、それが命の選択の問題に直結するからだ。例えば、これ以上全ての高齢者の延命治療ができないということはわかっているが、誰が選別するのかという問題が出てくる。ルールメーカー(国会議員)が手をつければ高齢者や家族に恨まれるし、医者もその責任を負いたくない。結局「制度が崩壊してからみんな騒ぐんでしょうね」ということになる。お金で判断するということもできるが、これも「金持ちだけが長生きするのか」という批判に晒されるだろう。

長谷川氏は自身のブログで「自分は問題を見たが、構造には気がつかなかった」ということを開陳してしまっている。医療が破綻する原因はわがままな生活を送っていた糖尿病患者にあると結論付けてしまった。それは当然「そういう人もいるがそうでない人もいる」ということになってしまうし、そもそも糖尿病患者を全て抹殺しても医療の構造的な問題は全く解決しない。

問題は解決しないのだから、警鐘は役に立たない。それは単なるノイズである。故に仕事を失っても何ら不思議はなかった。最初からキャスターとしては不適格だったのだ。もともと他人が書いた原稿を読むだけのアナウンサーだったわけだが、原稿の裏にある問題を意識しないで原稿を「ただ読んでいた」のだろう。それは必ずしも悪いことではなかったかもしれないのだが、ジャーナリストにはふさわしくない。

よく考えてみればこれも専門職の暴走である。長谷川さんの考えるアナウンサーの仕事は誰かが書いてきた原稿を面白おかしく騒ぎ立てることだったのだ。だから自分で全てを担うことになったときに「騒ぎを起こさなければ」と考えたのだろう。それが彼の勘違いだったのかどうかはわからない。テレビ局の役割は社会をよくすることではなく、騒いで視聴率をあげることだったということがありそうだからだ。

テレビ局は「世間を騒がせた」罪で長谷川氏を排除したわけだが、多分「うまく切ってくれれば問題はなかった」と考えているのではないだろうか。世間が騒ぐというのは単なるアウトプットの問題なのだが、テレビはそれが全てなのだろう。つまり日本では問題を騒ぐことをジャーナリズムだと考えていることになる。テレビは騒ぎが大きくなれば視聴率が稼げるという因果関係で「成果」を調整する。これは基本的には医師(全てのとまでは書かないが)が「レッテルを貼って薬を処方さえすればどこかからお金がもらえる」というのと同じ構造である。

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