ドラマの消失と炎上

夜、寝られずにフジテレビのドラマ「キャリア」を見た。途中までは普通のドラマだったのだが、最後の最後で主役の玉木宏に不自然な光が当たった。どうやら問題を揉み消そうとする「巨悪」であるところの国会議員とその息子を成敗する金さんという図式が作りたかったらしい。

後日、自転車に乗っているときにふと「あれは痛快スカッとジャパンだったんだ」と思った。その時に考えたのは、フジテレビってもはやドラマを作れなくなってしまったんだなあということだった。その時に思いついたのが「内省」の消滅というワードだ。日本人は自らを振り返って変化する力を失いつつあるのではないかと思った。

「痛快スカッとジャパン」はドラマではない。ドラマを見ている人をみるという複雑な構成になっている。なぜ、普通にドラマをみることができないのだろうかといつも思っていた。それはドラマの主人公や悪役に自らを重ね合わせることができないからというのが一応の答えになる。つまり、ドラマを傍観者の視点で見ているわけだ。

ではなぜ傍観者の視点で見たがるのかという点が問題になる。当事者であることにストレスを感じているというとになるだろう。これがバラエティ番組の肝だ。日本のバラエティ番組の基本構造はいじめだ。強いものが弱いものを叩いたりいじったりするのを傍観者の視点で眺めるのがバラティである。なぜそれが楽しいのかというと、自分は背後にいて「外れていない」ことを確認できるからである。

「炎上」のところでも考察したのだが、日本人は自分の言動や態度について表立って責任を取ることを極端に嫌がり、あくまでも「コロス」の役割を好んでいる。逆に強いリーダーも作らずに「空気」を醸成する。「痛快スカッとジャパン」はその延長になっており、悪役であるイヤミ課長を「誰かが成敗してくれるのを見る」のが一番心地いい立ち位置なのだが、ドラマを見ただけではそれがどのような意味を持っているかということはわからない。そこで視聴者の代表が「評価」することが求められるのだ。

つまり「痛快スカッとジャパン」は徹底的に当事者意識を隠蔽しているのである。

ドラマの本来の機能は主人公に自分を重ね合わせることにある。例えば、NHKの朝ドラに人気があるのは、主人公の女の生き方が自分と重なる時期が必ず一回は訪れるからだし、真田丸が人気なのは「何もなしえなかった不遇な主人公」が最後に「命を燃やす意味」を見つけるからだ。主役に憧れたり、乗り越えられなかった苦難を体験することでカタルシスを得るというのがドラマの基本構造と言える。

内省は必ず変化を生み出す。つまり、内省は人が変わるきっかけを作る。

制作者の意図は不明だがもし「キャリア」が数字を求めてバラエティ化していると考えると、それはドラマの自殺だということになる。バアラエティ番組はドラマの機能そのものを破壊することによって成立しているので、どんなに「かっこいい主人公」を持ってきても全く意味がないからである。できるとしたら、北町署をメタドラマ化して外から楽しむ人を追加するということくらいだろう。

今回は「内省」を軸にいろいろなことが結びついているのだが、書くことは癒しになるのかという問題を考えたことも思い返した。池田信夫や長谷川豊が「他人を攻撃する」ことを選んだのは内省を失っているからである。逆に小林麻央さんのブログに人気があるのは「がん」という変えられない現実があり、自分が「がん患者なのか母親なのか」という内省を通じて現実が持つ意味合いを変えようとしているからなのだろう。つまり、内省が人を感動するという基本路線は失われていないが、需要は低下しているということになる。

炎上が増えているのは「内省」が失われているからだ。状況を変えるためには2つのルートがある。一つは自分を変えることであり、もう一つは他人を変えることだ。炎上は他人を変えるためのとても極端な手法である。「自分は変わらない」と考える人が増えているからこそ、手を汚さずに他人を変えたいという人が増えるのである。

ドラマが成立するためには、区切られた時間と空間が必要である。これが容易に得られないのだろうと思う。したがって自らを省みる時間を得られず、かといって当事者にもなりたくないので、ネットで他人を攻撃することを選ぶという図式があるのかもしれない。

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