コミュニケーション障害は死ななきゃ直らないのか

先日、いきなり「ブログを削除しろ」といわれた話を書いた。話を聞いてみたがまったく要領を得ない。結局、引用部分だけを削除した。

「忙しいので後でまとめて書く」ということだったので待ってみたのだが、自分と相手のトラブルを壊れたレコードのように繰り返すだけで、ブログ記事の何が悪かったのかは書かれていなかった。多分、こちらが何の説明を要求しているのかよくわからなかったらしい。

これは「コミュニケーション障害だな」と思った。相手がどのような要求を持っているのかがまったくわかっていないらしいからだ。だからこそ、他人との間でトラブルが発生するのだろう。最終的に「ネットで発言するのはやめたほうがいいですよ」と書いて送った。また事故を起こすことは目に見えている。だが、それが伝わるとは思えない。

ただ、この障害がどのようにして引き起こされているのかはよくわからない。第一に執拗な攻撃にさらされることでパニックになっている可能性がある。なぜか、この人(ちなみに実名Twitterをやっていて2ちゃんねるでは職業も晒されているらしい)を攻撃するためだけのTwitterアカウントまでできている。

次に相手の言い分というものにまったく興味がないのかもしれない。つまり「話を聞かない」人なのだ。もしそうなら何を言っても無駄だろう。ただこの場合は、怒っている振りをすれば状況は解決するかもしれない。

しかし、最後の可能性が排除できない。もともと、相手が何を考えているのかが認知できない人がいるのだ。こうした人たちは一般的には「コミュニケーション障害」と言われているのだが、実際には認知に問題があるようだ。

認知障害の内容はさまざまだ。ある人は物事の感情的価値というものが理解できない。また別の人たちは相手の立場が想像できない。

例えば「合理的に考えると正しいが、感情的に受け入れがたい」という話がある。これが理解できない人がいる。他人の感情の動きが認知できないのだ。この人が感情的にならないということはない。どうやら自分の心情を中心に物事を理解しているようではあるが、他人にも同じような感情の動きがあることが理解できないようだ。

また別の人たちは他人の立場や知識が推論できない。これについては有名な実験がある。2人の女の子がいる。1人が離れている間に別の子がおやつを動かしてしまう。女の子が帰ってきたとき「帰ってきた子はどこにお菓子を探しに行くか」を聞いてみるのだ。すると認知に問題がある人は「動かした後」の場所を指差す。

この問題を解くにはかなり複雑な認知が必要だ。物事を俯瞰してみている人(読み手)と、お菓子を隠した人、隠された人の間には情報の差がある。そこで、各々がどのような情報を持っているかを理解しなければ問題が正しく解けない。「普通の人」はこれを半自動的に行っているのだが、これができない人がいるわけである。これは認知の問題なので、「他人への思いやり」を持っても解決はできない。つまり、道徳的には解決できないのだ。

ところが共感認知の問題は表面化しにくい。かつて理系がもてはやされていた時代には研究室から直接就職するような経路があった。そのために他人に共感ができなくても出世して経済的に成功することがあった。この人たちが壁にぶち当たるのは、出世して総合管理職になったときだ。営業職のように自分たちで価値が作り出せない人たちが嫉妬から「企業にとって」合理的でない行動に出るのが理解できないわけだ。管理職になってはじめて「共感する能力」が要求されるが、誰もそれを教えてくれない。最近でアスペルガー障害が表面化するようになったのは多分理系が普通の就職経路をとるようになったからだろう。

一方で「当然共感すべき」だと考えられている人たちは別の苦労がある。例えば保母や母親といった「ケアする人」は「この人には思いやる気持ちがないのではないか」と非難されやすい。

複雑な問題には対処できないので、人間関係から孤立するのだが、何がおきているのかがそもそもわからない。表面的な言葉をそのまま解釈する傾向がある。その人の本当の気持ちはカーテンの向こうにあって表出しないからだ。

こういう人たちにとってソーシャルメディアは極めて扱いにくい。まったく会ったことがない不特定多数の人たちがどのような情報を持っているかということを想像しなければ正しく使いこなすことができない。

では普通の人たちはどうやってLINE、Twitter、Facebookなどを使いこなすのだろうか。全知全能の神でない限り、相手の気持ちを類推することは不可能なのだが、少なくとも自分の経験から他人の経験を推論することは可能なはずだ。つまり自分の心情や過去の他人の言動から鏡像を作って、相手の気持ちを類推する。

さらに他人がどのような印象を持つかを想像しながら自己像を演出するということまで行われる。これも自己の経験を他人に移した上でかなり複雑な情報操作を行っていることになる。

逆に、自己の内部に鏡像が形成されないと、ソーシャルメディアが使えないということになる。情報は取れているのだが、それを正しく処理できていないことになる。

日本の社会でこうした問題が表ざたにならないのは「相手の心を読みあうこと」が当然だとみなされているからだ。気持ちの問題だと考えられており、能力の問題だとは思われていない。

さらに空気を読んでもらうのが当たり前だと考えられているので、空気が読めない人たちに対して「要求をはっきり伝える」という技術が発達しない。そこで教科書的には「アサーティブになること」が要求されるわけだが、自分の要求を伝えても、そもそもそれが認識されないことがあるのだなあと思った。

そういう人たちが気軽に政策批判ができるようになった結果、ソーシャルメディアの混乱につながっている。さらにそれに絡む人が出てきて(この人たちも共感に問題を抱えている可能性が高いのではないだろうか)事態はさらに複雑なものになっているのかもしれない。

さらに別の問題も引き起こされている。経験を共有している人たちの間では優れた調整能力を発揮していた政治家や役人たちが、ソーシャルメディアに圧迫されて「説明責任」を果たそうとしてぼろぼろになることがある。これを見るとネイティブな共感能力が乏しいが、後天的に学習したのかもしれないと思う。「説明責任」を果たすためには、不特定多数が何を期待しているのかを限られた発言から読み解く必要があるわけだが、それができないので、頓珍漢な発言を繰り返してしまうのだろう。

コミュニケーション障害は認知機能の問題だと思うのだが、これが後天的な訓練でバックアップできるのかがわからない。経験的には、後天的に訓練するよりも物事の単純化によって解決しようとしているように見える。