リベラルを抜けだした人権派だけが生き残る

誤用されるリベラルという用語

前回はリベラルという言葉が誤用されているというようなことを調べて書いた。リベラルとは「〜からの解放」という意味であり、もともとは小さな政府派を指している。これを修正する動きが出てソーシャルリベラリズムという概念がうまれ、それが日本の左派に輸入された。彼らはすでに革新派を自認していたので、リベラル=左派=革新ということになった。

少し厳しい言い方をすれば共産主義が否定されてしまい支持が集まらなくなったので、人権、戦争反対、環境などに逃げ出したのが今の左派だと言える。

そのまま差別用語になった

戦前の日本人は、西洋から「支配するもの・支配されるもの」という概念を輸入した。白人は支配する人だ。日本人はいち早く西洋化してアジアを支配すべきだと考えるようになった。その眼差しを修正しないまま中国や朝鮮半島に向けた。これがシナとかチョンという言葉の元になっている。中国が経済的に成功しだした頃から、反動として「中国は支配されるべき劣等民族」なのだという価値観が復活した。日本人はアジアの台頭が素直に喜べなかったのだ。

ところが、これが左派と結びついて、劣等民族としての左派が日本の体制を転覆しようとしているというような歪んだ考え方が生まれる。中国は実質的には共産主義国ではなくなってしまったために代替するイメージが必要だったのだろう。

政治の世界ではこの考え方は意外とメインストリームとして生き残っている。世界を支配するのはアメリカであって、日本はその代理者としてアジアを教化するのだというシナリオがTPP推進の動機になっているようだ。キリスト教的価値観が理解できず、アメリカはお金持ちだから偉いという点が強調されているのが悲しいところだ。なんとなくカーゴカルトっぽい感じがある。

実は家も名前もない日本の人権派

さて、さまざまなブログを観察していて別の「誤用」を見つけた。リベラルを人権派と自己規定している。以下、引用する。

それは、リベラルがリベラルとして理想を容易に語れなくなったということであり、理想の理念の代表格である「人権」ですらその波には逆らえず、トランプ的「ホンネ」の前ではこれまでのように無防備に理想主義としての「人権」が語れなくなってしまった。

アメリカで起こっていることを思い切り誤解しているなあと思ったのだが、この「リベラル=人権」というのもよくある用法だよなと思った。誤用とも言い切れないのはリベラルには「偏見から解放された」という意味合いもあるからだ。確かに進歩的な人たちをリベラルということはある。

敢えて誤用だといったのは、彼らが何から解放されるべきなのかということを考えずに、リベラルというラベルを使っているという点にある。伝統的な左派政党は国家の社会保障などは肯定しつつ、国家が人権を侵害することを嫌う。多分企業の自由な活動にも否定的なのではないかと思う。だから国家が経済活動を規制すべきだと言えば、賛成するだろう。

だが、なぜ解放されるべきなのかを考えない限り人を説得することはできない。日本の人権派がそのことを考えてこなかったのは、実は彼らが人権を単なるお題目だと考えているからなのだろう。

人権はなぜ擁護されるべきなのか

そもそも人権はなぜ擁護されるべきなのだろうか。2つの柱がある。

1つ目の柱はキリスト教の考え方による。人は神の前では平等なので、すべての人は同じように愛されなければならないというのが、キリスト教的な人権擁護の意識だろう。だが、多くの日本人は聖書を読んだこともないし、キリスト教の価値観を共有していない。だからこの線で人権を擁護することはできそうにない。

だが、人権擁護には別の柱がある。

アメリカで人権派といえば民主党だ。民主党は都市型政党であり、政府が人権擁護のために介入することには反対しておらず、アンチリベラルと言える。共和党はリベラルな政党で、強者(彼らの認識によれば能力があり頑張った人たち)が報われるべきだと考えている。

だが、実際には経済的強者は民主党を支持し、負け組になっていて政府のサポートが必要な人たちが共和党を支持するという逆転した図式がある。経済的に余裕ができるほど他者に優しくなる。すると優秀な人たちが集まりさらに発展するという好循環が生まれる。多様性は富をもたらすから、善なのだということだ。もともと自由都市に集まった人たちが経済的に成功したというヨーロッパの歴史が元になっている。

こうした違いはすでに表面化しつつある。ニューヨーク。シカゴ、ロスアンジェルスなどの諸都市は不法移民を保護するという宣言を出した。これらはすべて民主党が強い地域だ。

人権擁護は単なる建前ではない

先ほどのブログの分析によると都市の市長たちは「建前」を口にしているだけだということになってしまうのだが、実は建前ではなく、競争力の源泉になっている価値観を擁護しているのだ。

人権を守るということは多様性を確保するということで、それは経済的な強みを維持するということだ。だから、人権は重要なのだという結論が得られる。

いわゆる日本の人権派と言われる人たちが「人権など建前なのだ」と考えてしまうのは、皮肉なことだが人権擁護という価値観を信じていないからなのである。それは日本が総じて共和党が勝った側のアメリカと同じような状況にあるからだと分析することもできる。そこから脱却しない限り、日本の人権派が成功することはないだろう。

 

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