なぜ日本の政治は歌舞伎化してしまったのか

さて、先日来政治の演劇化について考えている。

アメリカでは、現状を打破してくれそうなトランプ候補に人気が集まった。プロレスやリアリティーショウで大衆の心を煽る手法を身につけたトランプ候補は当初「政治でなくリアリティーショウ」などと揶揄されていたわけだが、実際には、実際の政治は信頼できないと考える有権者を掘り起こし、従来の誠治参加層を離反させた。念入りに作り込まれたドラマが忌避されてリアリティーショウに人気が集まるのに似ている。旧来からのテレビの視聴者は離れてしまう。

一方、日本の政治は歌舞伎化している。実際には外国の状況や衰退してゆく人口動態に振り回されているだけなのだが、自民党は力強い統治者を演じ民進党がそれに反対するという図式である。問題解決ではなくテレビが入った時にいかに悲壮な顔をして反対して見せられるかというのが、野党政治家の一番の腕の見せ所になっている。問題解決は出来ないが、何か問題提起をしてそれがテレビニュースに乗れば一躍「朝生討論会」メンバー入りである。政治家はひな壇芸人化しているわけで、政治のバラエティー化と言える。

両国の現状は、政治が普段の生活から遊離してしまっていることを意味している。

アメリカの場合はそれでも選挙キャンペーンに有権者が参加することができる。有権者は対話を通じて目の前の問題について学ぶことになる。一方日本にも自分たちの問題に目を向けるチャンスはある。こうした問題は地域の自治会などで取り扱われている。自治会が扱う問題は国の規制の問題に行き着く。つまり地域と国は連動しているのだ。

これとは別に住民相談室を作っている地域政党もあり一定の支持者がいる。たいていの場合には「消費者のネットワーク」が母体になっているようだ。

しかしながら、自治会や消費者組織は一般化することがない。いろいろな問題がある。

第一に日本人の有権者が消費者化している。日本の政治はもともとは臣民型と呼ばれていたそうだが、アメリカに解体された。その後、紆余曲折を経て有権者は税金を払ってサービスを受益する消費者になった。これは皮肉な例えでもなんでもなく、市役所などでは有権者のことを「お客様」と呼ぶことがある。

もともと自民党は地域の生産者団体を組織してできている。地域生産者とは農家や地域の中傷零細企業だ。もともと政治は生産と結びついていた。しかし、長い歴史の中で有権者は生産者ではなくなり、ついには正規従業員でもなくなりつつある。それを受け入れる政治団体はないので、国民の政治離れが進むのである。

非生産者が政治に参入しないのはどうしてなのだろうか。

バブルを知っているくらいの世代の人たちは、左翼がもっと暴力的だった時のことを知っている。大学にはアジトがあり、普通の学生は「政治とは過激なものだから近づいてはいけない」ということを学ぶ。彼らは勉強もしないで7年間も闘争するドロップアウトであった。普通の知識人(といっても都心の大学生くらいのレベルだが)にとっては、政治はテレビで見るものであり参加する(といっても角棒を持ってデモに参加することだが)ものではないのだ。

自治会に入るのも敷居が高い。地域には「仕切り屋」がいる。仕切り屋たちにはいろいろな流儀があり、それ以外のやり方は許容しない。日本人は村落を作って落ち着くのを好むので、多様性を受容するのに慣れていないのだ。地域の中には退職前の職業が違うために、やり方が合わないという人たちが必ずいる。こうしたところに新規参入者が入ると大変なことが起こる。「どちらの味方になるのか」ということになってしまうのだ。

バブル期の大学のアジトと自治会は違っているように思えるのだが、実際には多様性を許容しないという点では似通ったところがある。違いは血の気の多さくらいだ。大学のアジトは闘争を繰り返し、小さな集団に分裂した。これは決め方を闘争によって決めようとしたからだ。国会が「プロレス」だとしたらこちらはストリートファイトのようなもので、実際に死人も出ている。

自治会の場合は気軽に引っ越せないので、そのまま耐え忍ぶしかない。集合住宅の中には「お金で解決する」人たちもいる。管理会社が自治会に入り、居住者は管理費を払うという形式だ。これは自治会が単なる「お掃除当番」だと見なされているからである。

日本の地域政治に消費者団体と自治会組織の二本立てになっているのは、お母さんが政治参加しようとしても自治会では主役になれないからだ。「お前は世の中のことは何もわかっていない」と決めつけられてしまうので、消費者団体などに避難してしまうのだ。

政党も自治組織や消費者組織を活かし切れているとは言えない。政治家は「仕切りたがる」人たちなので、こうした団体を自分たちのファンクラブだとしか考えていないからだ。そのため、独自の候補者を立てない消費者団体(現在では高齢化の問題に対処いている人たちも多い)は各所からくる応援要請を「どれにしようかな」と選び、付かず離れずの態度を取ることがある。取り込まれてしまうのを恐れているのだろう。実際に話を聞いてみるとその態度はかなり冷ややかである。

地域の団体は生存を危機にさらすような闘争を避け、ニッチを獲得するとそこで場を支配したがる。素人の「政治家」は人を利用して自分の利益を追求しようというずるさを持たないので、たいてい協力者がいない。

まとめると、日本では多様性のなさとリーダーシップの欠如から政治の演劇化が進んでいるものと思われる。これが政治の演劇化を加速しているのではないかと考えられる。