ジャーナリズムの役割を放棄しつつある日本の新聞社

安倍首相がフィリピンのドゥテルテ大統領と会談し1兆円の「資金援助」を決めたそうだ。このニュースを見ていて、日本の新聞社はもうジャーナリズムの役割を放棄しつつあるのだなあと思った。

このニュースでは以下のようなことが伝えられている。例として日経新聞を読んだ。

  • 安倍首相がドゥテルテ大統領と会談。
  • 政府開発援助(ODA)や民間投資をあわせて今後5年間で1兆円規模を支援することを約束。
  • インフラ投資を効率よく進めるため、両国の関係省庁幹部からなる会議体も新設する。
  • この動きはフィリピンに接近しつつある中国を牽制するためのものだ。

さて、この記事に欠けている情報は何だろうか。産経新聞を読むとちょっとわかってくる。産経新聞はこれを「投資」と言っている。「投資を通じて支援する」ということで、政府援助が無償供与ではなく「借款(国と国の間の貸し借りを特別にこう呼ぶそうだ)」らしいことがわかる。一方、何かにつけ政府にたてついているように見える朝日新聞の記事はどうかと思って見てみると、こちらも書いてあることは大同小異だった。人道支援にあたる麻薬対策に触れている。

このことから「大人たち」は支援と称してひも付のお金を渡して、日本のインフラを輸出しようとしているということがわかる。それを期待しているからこそ「支援・投資」がごっちゃになっていてもさほど気にならないのだろう。一方、サヨクの人たちはこれがわからないので「一兆円あるなら国内の貧困家庭を支援しろ」などというわけである。

実際にはODAは無償援助と優勝支援を含むそうだ。この割合がどのようなものになるのかはよくわからない。各社の報道には何も書いていないからである。

だが、ODAには問題が多いと指摘する人は多い。大きなお金が動く割には監視がほとんどないからである。第一に現地の国民の監視だ。有償援助は自動的に援助国への負債になる。これを返すのは国民なのだが、税による支出ではないために現地政府が利権を独占してしまうことがある。つまり、多くの国民は「利益が得られないのに借金だけ負わされる」場合があるのだそうだ。

安倍首相が勝手に「お金をばら撒ける」のはこれが国会の監視を受けないからである。ODAは特別会計からの支出も多く国会の承認が必要ない場合が多いのだそうだ。商売がわからない役人が現地政府の言うがままに投資を決めるために、現地に必要のないインフラができたり、そのまま焦げ付いてしまうこともあるということになる。これを批判するためには常にODAの動きを観察しておかなければならない。それは面倒なので新聞社はその役割を放棄しているのだろう。

新聞社は野党が何か攻撃すればそれをニュースとして伝えはするのだが、自らの問題意識で検証することはない。それは日本人が納税者意識をあまり持っていないからだろう。政府の金は「他人の金」という意識が強いのだ。

援助してくれる国に最大のヨイショをするのは当たり前のことだ。だが、その約束を後生大事に守らなければならないということにはならない。日本政府は「慰安婦像を撤去するように努力する」という甘い約束を反故にされたばかりだ。一方で「北方領土交渉をして欲しかったら誠意を見せろや」というプーチン大統領に妥協してしまった。これくらい外交が下手な国を手玉に取ることなど簡単だろう。相手先が日本の国益に沿う動きをとっているかも監視する必要があるのだが、日本の新聞社がそんな面倒なことをするとは思えない。

一方で「官民合わせて」という点も曲者である。おそらく内訳が決まっていないのではないかとお思えるのだが、よくわからない。最近はオリンピックの予算で揉めている。都が負担できないものは国が出すと言っていたのだが、実際には他の県に請求書を回そうとした。口約束が横行する世界であり、民間企業が約束を履行するとは思えない。そもそも国は企業に投資を「命令」することはできない。

ODAは官邸が勝手に決めることができる予算なので利権の源泉になりやすい。かつてはアメリカが共産化を防ぐために日本に援助をしてきたという歴史がある。冷戦構造がなくなっても中国の脅威を煽る必要があるのは、企業と政党のお金儲けのためにそれが便利だからなのだろう。新聞社はわかっていてそれを追認しているのだ。