超人になるべきというテレビドラマの洗脳

アドラー心理学がちょっとしたブームになったせいで、フジテレビが「嫌われる勇気」を下敷きにした刑事ドラマをはじめたようだ。番宣だけを見たがドラマはみる気にはならなかった。つくづく不思議な捉え方だなあと思ったからだ。そもそも、なぜアドラー心理学を実践すると他人に嫌われるのかがよくわからない。

アドラー心理学は課題と心情を分離する点に特徴があると思う。ただそれだけである。人々は他人に期待を持っており、それが裏切られると腹が立つ。だから、それを切り離してしまえば、余計な葛藤はなくなる。

ところが、ドラマの主人公は「感情がない」人ということになっている。代わりに与えられるのが「感情を度外視して問題解決に邁進する」というキャラクターだ。テレビにはこうしたステレオタイピングが多い。杉下右京は並外れた知能を持っており、代わりに組織内での出世が見込めないことになっている。大門未知子は天才的な外科医だが、フリーランスであり組織で出世できない。二人とも組織から「嫌われている」。

確かに課題を切り離すことで問題解決がしやすくなる。しかし、日本場合はそれだけではダメで、代わりに何かを差し出さなければならないことになっている。つまり社会的な制裁を受けるのである。これはスティグマのようなもので、例えて言えば「刺青」をして二度とカタギの世界には戻れませんよという宣言になってしまう。それでも生きてゆくためには並外れた技術が必要だということになる。

組織というのは社会的に容認された自発的な奴隷制度のようなものだ。問題解決をしない代わりに庇い合いをすることになっているが、主に庇われるのは上の方にいる人たちである。底辺の人たちは搾取されるだけということになる。底辺にいる人たちは、そもそも組織に参加しないかあまり組織に貢献しないのが合理的な選択肢ということになる。すると組織は持たなくなるので「感情から解放されて自由になってもいいですよ」と宣言した上で、2つの条件をつきつける。豊かな才能があり、なおかつ組織内での出世を諦めるべきだというわけだ。すると「さして才能もない」と感じている人たちは組織に貢献することを選ぶわけである。つまり、意図しているかどうかは別にして、テレビドラマのプロパガンダは悪質な洗脳なのだ。

この弊害は大きい。テレビでは「やらさせていただいている」という言葉が横行している。これは他人のおかげで仕事が与えられているという謙譲表現であっても、結果には責任を負わないということだ。それは「させられているだけ」であり本人の意思ではないからである。誰も責任を持たないので結果失敗すると「仕方がなかった」ということになる。第二次世界大戦は「天皇のために戦わさせていただいている」戦争だったのだが、結果誰も責任を取らなかった。もとともは内向きな政治家の無力と軍部のマネジメントの失敗を隠蔽するために、なし崩し的に戦線が拡大して行っただけなので、出口戦略がなかった。結局、誰かを犠牲にしないと成り立たなくなってしまったのである。犠牲になったのは飢えて死んだ兵士、捨て石にされた沖縄、空襲された都市の住民、最後に広島と長崎だった。

この洗脳から抜け出すためにはどうすればいいのだろうか。それに気がつくためには、組織がそれほどあなたに関心がないということを知ることが重要である。だが、所詮他人のことはわからない。そこで、あなたが他人にどれほど関心を持っているかを考えてみると良いと思う。

さして他人に興味を持っていないだろうし、他の人のために何かしたいなどとは考えていないはずだ。次に考えるべきことは、あなたに並々ならなぬ関心を持っている人を探すことだ。騙そうとして狙っている、自分の善意をデモンストレートする対象として利用しようとしている、凭れかかるためにあなたのことを知りたがるかのどれかではないだろうか。

そもそも誰も他人の話など聞いておらず自分の主張を叫んでいるだけなのに(つまり社会はTwitter状態なのだ)その集積である組織があなたに何をしてくれるというのだろう。そこから抜け出すのに何も感情を抑圧する必要などないということが簡単にわかるのではないだろうか。

 

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