正義のシンボルコンドールマンと正義のありか

真面目な(本当は真面目を装っただけのものもあるのだが)話が続いたので、ゆるい話を入れたい。

コンドールマン絶賛”放送”中

現在、YouTubeでコンドールマンをやっている。全24話あるそうだが、2週間分のビデオが一週間限定で見られる。現在、食糧大臣が悪のモンスターであることがわかりコンドールマンにやられたところである。食糧大臣は食糧を買い占めて金儲けを企んでいたのだ。

この中で、友好国が援助食糧をタンカーで運ぶシーンがある。結局モンスターに空爆されてまうのだが、この画は数年前のオイルショックを想起させたはずだ。オイルショックは当時の人達から見ると「悪い奴らが金儲けを狙っていたから」起こったことだと理解されていたのかもしれない。

個人の欲求を肯定できなかった日本の正義

作者の川内康範はのちに保守思想で有名になる。正義という言葉にこだわりがあり、コンドールマンを「正義」そのものではなく、正義のシンボルであると記述した。先行する月光仮面も正義の味方(のちに助っ人と呼ばれるようになる)であり、正義そのものではないとした。私利私欲が悪だと規定しているので、ヒーローが正義として権威化されるのを嫌ったのだろう。川内のヒーローは匿名性が高く、コンドールマンもすでに死んだ人の化身である。日本人は個人の欲求を肯定的に捉えることができず、卓越した才能にも警戒心がある。そこでヒーローは悲しい宿命を背負わされたり、殺されたりして、個人の喜びを剥奪される必要があった。

コンドールマンでは悪を自明のものとして描いており、悪であることの葛藤のようなものはない。姿も醜く描かれており、コンドールマンの眼力(コンドールアイ)をつかえばたちどころに暴かれる仕組みになっている。国家権力は悪に操られており、これが現在の保守思想と異なる。現在の保守思想は実際には単なる権力迎合に過ぎないなのだが、高度経済成長期には、保守と国家はある程度分離していたわけである。

国家は悪なの、タンカーがモンスターに襲われても国家権力である自衛隊が出動することはない。テロという概念は冒頭に出てくるのだが「犯罪者組織」としてしか描かれていない。国家でない集団が軍事的圧力をかけるという概念がなかったのだろう。テロ集団が準国家化したのは冷戦が終了してから後のことなのだ。こうした状況を見ると現在の私たちはずいぶん遠いところまできたなあと思う。

大臣だけでなく警官も実はモンスターだった。体制に対する根深い不信感が感じられる。

「私だけは正義を知っている」という感覚

ということで、私利私欲のな子供(+現実的には無能な男)しか正義の側にいない。国家がコンドールマンを犯罪者認定したので、口コミでしかコンドールマンが正義のシンボルであることは伝わらない仕組みになっている。コンドールマンのシンパの子供達だけが、誰が正義かを知っている。

周りの人たちは「その他大勢」として描かれており、食べものが入ってこないならだれが正義でも関係ないと主張している。じつは彼らも食糧不足に悩む被害者であり、正義としてのコンドールマンに感謝しなければならないのだが、無知蒙昧で啓蒙が必要な人たちだと位置付けられている。主題歌には「汚れてしまって救う価値もない日本なのに」という意味の歌詞がある。

正義の眼力を持った人はそれほど多くない(が、俺だけは何が正義かわかっている)というのは、今でも日本人が持っている感性かもしれない。

悪は自明であり、正義は防衛的であった – のだが

先に書いたように、コンドールマンの悪は自明のものであり、正義はそれに対抗するものだと考えられている。だから正義には動機がなく「自衛的」だ。

こうした構図は今でも日本のヒーローものに引き継がれている。ただ、単純な勧善懲悪ドラマは現在ではめったに見られなくなった。だから「子供番組だから善悪がはっきりしているのだ」とは言えない。例えば、現在の仮面ライダーは「病気」と戦っている。私利私欲ではなくリスク社会と対峙しているのである。また、現在の戦闘ものでは敵(デスガリアン)はゲーム感覚で生き物の命を奪っている。正義が自衛的であるという点は似通っているが、扱う悪は享楽的で性質が異なっている。

享楽的な犯罪と病気は全く異なっているように思えるのだが、実は「社会には得体の知れない危険が溢れている」という漠然とした不安を扱っているという共通点がある。

現代社会は善悪の境目が曖昧になっているのだが、高度経済成長期に育った人の中には「白黒はっきりしていた」時代の記憶が残っているかもしれない。たとえば、Twitterには自分こそが正義で他人は騙されているか私利私欲にまみれていると考えている人たちが溢れている。同じ感覚を平成世代が共有しているかどうかはじつはよくわからない。

Twitterでは毎日コンドールアイが発動しており、モンンスター認定された人たちが容赦なく叩かれている。モンスター認定された人たちは社会的に抹殺されるのだが、一ヶ月も経てばそのことは忘れ去られる。これは現実世界で善悪の境目がはっきりしなくなっても、人々が正義の側にいるという感覚を求め続けているからだろう。つまりは、正義こそモンスターなのかもしれないと言えるのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です