Twitterで正義に溺れる

今回は次の情報、提案、意見を含んでいる。

  • ソーシャルメディアにはアルコールと同じような依存性がある。
  • 依存に陥らないためには複数の発信チャンネルを持つべきかもしれない。
  • アートには多分存在意義がある。

ここ数日、かなりの数の閲覧があった。豊洲市場の記事を書いたのだが、これが移転反対派の人に見つかってしまったのだ。現在テレビで活躍している人でフォロワーと思われる人が殺到した。さらに悪いことに「日本人論」の類型に沿って書いたため「わかった!」と思う人が続出したようだ。だいたいこのようなサージは3日くらいで落ち着く。騒ぎは沈静化しつつあり、いつものまったりとした閲覧数が戻りつつある。

閲覧者が増えても誰もコメントを寄せない。これは誰も反論がなかったということになるのだが、これは記事そのものを読んでいるひとがいないからだろう。日ごろから思っていることがあり、それに合致する読み物を好むのではないか。考えるに、ソーシャルメディア上の文章には2つの効用がある。

一つ目は、認知的不協和の解消である。人は思っていることと実際に起こっていることの間に齟齬があることを嫌う。これが解消されるような文章を読むと「わかった」という気分が得られて気持ちが良くなる。実際には内容は読んでおらず、自分が解釈したいように解釈しているだけなのだがそれは気にならないのは、文章を読むことが認知不協和を解消する正当化要因として働くからだろう。自分が言ったというより、他人から聞いたと思いたいのだ。

次の効用は一体感である。誰かと同じ意見を持っていると感じると社会的な認知が得られる。これが快楽をもたらすのは間違いがないようだが、その仕組みはあまりよくわかっていない。参考に読んだWIredの記事によると単に気持ちが良いというだけでなく、脳内に化学物質が放出されるようである。

文章にはコメントはなかった。しかし、自分の個人情報を晒した上で「あなたは世界で一番論理的な文章を書く人だ」というメッセージを送ってくる人がいた。合理的な分析能力を一時的に喪失した状態になっており、かつ自分の境遇を話したいという人なのだろうと思った。社会的認知にどれほどの快楽性と中毒性があるかがわかる。事実は重要ではなく、つながりが重要なのである。

ただし、強い快楽には依存性がある。つまり、認知的不協和の解消と一体感の維持を求める気持ちはエスカレートしてゆく可能性が高い。今回はサージは豊洲問題について追求している人のエンドースメントがきっかけになっているのだが、かなり長い時間Twitterに張り付いている人のようだ。中にはかなり陶酔したつぶやきも見られる。軽い依存状態が起きているのだろう。

よく、取り憑かれたようにどちらかの政治的ポジションからリツイートしている人がいるが、本来であればこれはやめたほうがいい。それは依存だからだ。正義ではなくアルコールやギャンブルと同じなのである。しかし、依存に陥っている人に「それは止めたほうがいいよ」とは言えないし、取り上げると暴れ出す可能性すらあるだろう。

この陶酔は個人のレベルでは終わらない。社会的な絆というのはそれほど強い麻薬性を持っている。Wiredの別の記事によるとの集団になると倫理性が失われてゆくという研究もある。こちらも細かい仕組みはわかっていないようだ。

さて、ここまでなんとなく分析的に書いているが、アクセスが多くなると社会的に承認されたという気分になってしまう。するとさらに同じような線でさらに刺激の強い文章を書きたくなるのだ。するとやがて「真実などどうでも良くなる」可能性が高い。

これは依存なので、解消するためにはその対象物から離れるしかない。つまり情報発信すると決めたなら、離れることができる場所を持っている必要があるということである。だから、情報発信するなら複数のチャンネルを持っていたほうがよく、コミュニティも分けたほうが良いと思う。これはたまたま一つのチャンネルが受けただけで、人格そのものが受け入れられたのではないということがわかるからだ。普段から「課題の人格と分離」などと書いているが、結構難しいことなのだ。

と、ここまでは昨夜書いたことを書き直したものなのだが、今朝起きて「対象に飲み込まれないようにして自己表現するのが芸術なんだよな」と思った。アートがなぜ表現の安定装置として働くのはかわからないのだが、多分表現にある程度の技量が必要になるからだろう。

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