病気の犬が教えてくれていること

帰ってきたら洗濯物が風で飛ばされそうになっていた。「仕方ないなあ、誰も気がつかなかったのか」などと思っていたら、家族が叫んでいる声がした。数時間前までなんともなかった犬が庭でぶっ倒れていたそうだ。犬は時々うめき声を上げている。

日曜日なので開いている動物病院がないらしかったが、電話帳を片っ端から当たって見てくれる病院を見つけたみたいだ。

よく犬を飼うなら最後まで面倒をみるべきだなどというが、軽々に言うべきではないなと思った。どんなに可愛かった犬も人間より先に老いてしまう。予兆はあって、足が悪くなってお散歩に行けないということもあったし、後ろ足も震えるようになっていた。「いつかはお別れがくるんだろうなあ」とは思っていたのだが、いきなりぶっ倒れるというのは初めてだった。

とはいえ、洗濯物も畳まなければならないし、日常生活は続いてゆく。待っている間なにもやることがないので、Twitterをながめていた。今日はまた誰かが過去の記事を見つけたらしく、やたらと通知が送られてくるのである。画面には政府の無策を罵るツイートが溢れている。目の前のいつかは潰えてゆく命について考えながら、ある意味、普段通りの世界がそこにはあった。

それは、これまでどおりの不愉快で理不尽な現実が未来永劫続くのではないかという怒りなんだろう。だが「今という瞬間がかなり奇跡的な状態である」ということが瞬時に伝われば、こうした不満は消えて無くなるかもしれないと思った。「不愉快な今」は実は奇跡的な偶然だ。いつまでもは続かない。

もし、それが実感できれば、不満の種そのものはなくならないにしても、少しでもマシな状態に近づくためにどうすればいいかということを一人ひとりが考え始めるのかもしれないとも思った。でも、そういう感情を伝える手段はないし、もしかしたらTwitterの向こうの人たちも大なり小なり「自分の力ではどうしようもない」ことを抱えているのに、こちら側が気がついていないだけかもしれない。

星占いを見ながら「今日は何か悪いことをしたのかな」と思った。だけど、よく考えてくるとそれは誰にでもやって来ることであり、取り立てて運が悪ったわけでも、何かの報いでもない。だから、今知り得る情報の中で、誰が正しくて誰が正しくないかなんて、本当に些細でどうでもいいことなのではないだろうか。

犬は呆然とした様子で戻ってきた。検査の結果、特に悪いところは見つからなかったという。はっきりと「病気だ」とわかれば人間は安心できるが、犬には意味がないことかもしれない。さっきから、どこかここではないところを見ている。過去や未来について思い煩うことはない。犬には現在しか存在しないからだ。しばらくはこうした状態が続くんだろうなあと思った。