「それでも生きる」と決めた少年に大人たちがしたこと

先日来、憲法改正、教育、および政治の中立性などについて見ている。今回は横浜の教育委員会が炎上している問題について考えたい。

震災で亡くなった方を思い出して子供は生きることを決めた

福島から転校してきた子がいじめられた。いじめが止むことはなく小学校の低学年から高学年まで続く。悪いことに先生も「この子は学校カーストの下位にいる」と認識したらしく、それを黙認したまま追随した。この子の偉いところは自殺して逃げることを思いとどまったところだ。神奈川新聞が手記を伝えているが、東日本大震災では生きられなかった人を思ったようである。まずは、この手記を読んでから読み進めていただきたい。

だが、このことが却って「学校のいじめ認定」を妨げることになった。かなり苛烈ないじめをうけており(ハフィントンポスト)友達と遊ぶお金150万円をおごらされたのに「いじめ」を認定しなかった。「自殺したらいじめを渋々認める」という相場観ができているのがわかる。つまり「大人にいじめを認めさせたかったら死んで抗議しろ」ということになる。日本はそういう教育をしているのだ。

大人たちは、まずかばい合うことを決めた

では、なぜ教育委員会はいじめを認めたがらないのか。それはいじめを認定すると、学校が遡って管理責任を問われるからではないかと疑われる。生命や財産が危険にさらされるようないじめがあった場合には学校が「しかるべき措置」を取らなければならないと法律で決まっており、これを怠ったことになってしまうのだ。これは最終的に「校長先生や学校の名誉が傷つき、退職金などに影響が出る」ことになる。教育行政と学校の間には親密な連帯があり、これが隠蔽につながるわけである。

つまり学校などの集団の名誉を守るためは個人は多少の不具合は黙っていろと教育している。集団の方が個人より優先順位が高い。ただ、死んでしまうとこれが逆転する。死ぬと神になって祟ると考えられているからかもしれないとすら思う。

ただし、こうした「相場観」は文脈として空気のように共有されているだけのようだ。ねとらぼが面白いインタビューをしている。学校は責任を取らされかねないが、明確な基準があるわけでもないというところなのだそうだ。つまり「不確定」が生まれることになる。集団はこれを嫌うのだ。

極めてお役所体質が強い教育委員会

今回炎上の対象になっている横浜市の岡田優子教育長はもともと市役所の出身のようだ。高卒の女性ながら高い地位に上り詰めたのだという。この人が「いじめ調査」を主導したというよりは第三者委員会をコントロールできなかった可能性が高いようだ。岡田教育長は「法律に従って第三者委員会を作ったのでその結果を覆すことが難しい」と言っている。

間違いが決して許されない役所としては正しい対応なのだろうが、一般常識に照らして適切な対応をとるという教育委員会としては全く間違った対応である。子供と法令のどちらを守るのかと聞かれて「法令を守る」と言ってしまっているのだが、その意味に全く気がついていない。結果的に「命は大したことはない」というメッセージを子供たちに送ることになった。学校はかばい合う。いじめられた君が守られることはないという過酷なメッセージだ。

判断から逃げた大人たち

この「役人的な対応」が何を意味しているのかということが、おぼろげながら見えてくるのだが、決して像を結ぶことはない。ハフィントンポストの記事を読む限り、教育委員会や第三者機関は独自調査は行っておらず、学校の調査に頼っている。だが、学校側は「生徒同士のお金のやり取りは警察の調査などに任せたい」と及び腰である。つまり「いじめはなかった」と判定したわけではなく、判断から逃げたのだ。

なぜ警察が犯罪扱いしなかったのかと考えてみたのだが、多分「おごらされた子供」がいっしょに遊んでいたからだろう。親からお金をくすねて遊興費に使っていたのか、それとも強要されていたのかということは外からはよくわからない。調査は教育の一環であるべきで、つまりそれは子供に「あなたの命は大切だから学校はそれを全力で守る」というメッセージを送ることだ。だが、教育委員会はそこから逃げた。

福島から来た「穢れ」を背負わされた少年は、例えば非常勤講師みたいなものだ。やりがいを得られない先生たちは「下には非常勤がいる」と考えることで溜飲をさげることができるし、非常勤講師もその中で生きてゆくしかない。これは他人を犠牲にする行為だがいじめとは言われない。大人の世界ではこんなことは日常茶飯事である。つまり、福島からの転校生は集団の犠牲にされたのである。「その子がお金を出せばみんなが楽しい思いができる」と子供が考えても何も不思議ではない。本当に罪の意識はなかったかもしれない。閉鎖された集団は「下」を探すようになる。

正義にこだわる人たち – 政治的に偏りのない市民などいない

大人たちが「決める」という責任を避けているという傍証がある。決める責任がない人は「教育委員会はいじめを認めるべきだ」と圧力をかけ始めた。原子力発電所は悪であると考える人たちが「原発がなければこの子は福島で暮らせたのだから安倍政権の被害者だ」と考えても不思議ではない。学校関係者は決めるという責任から逃げたのだが、こちらは匿名だから責任を取らなくてもいいのである。

今回個人的な考察の対象は「教育は政治から自由でいられるか」ということや「国がスポンサーシップを持った時、教育はどう自立できるのか」ということなのだが、今回の件を見ている限りそれは絶望的に難しいようだ。

教育委員会制度は政治から独立しているという建前なので市長は教育委員会の調査に介入できない。建前としては普通の市民が教育委員会を運営していることになっている。これを「レイマンコントロール」というのだが全く守られていない。

「普通の市民」から見るとこれはどう考えてもいじめだ。つまり教育委員会は学校コミュニティに寄りすぎたあまり市民感覚から乖離している。だが「市民」の中にはいろいろな人がいる。天皇を中心とした家族的な国を作ろうという市民もいれば、安倍政権が嫌いだから原発避難者は社会の被害者でなければならないという人もいる。だから一度出した決定を市民の圧力で変えてしまうのは「政治的圧力」になってしまいかねない。

調整されない意見が教育委員会という官僚機構に直接ぶつかっている。こうした政治的な圧力に晒されて教育委員会は閉じこもり、さらに防衛的な態度をとってしまう。そして炎上だけが強まってゆく。決めたがらない大人と決めたがる大人の対立だ。だが、そこに命を選択した子供に対するリスペクトは微塵も感じられない。

子供へのアドバイス – 大人を信頼するな

あらためて社会の大人の対応をまとめてみよう。

  • 学校はただただ責任を取らされるのを恐れて調査もせず、なかったことにしたがっている。
  • 教育委員会は学校を慮って「いじめとはいえない」といい繕う。
  • 市民たちは自分たちの想いを事件に乗せて炎上を作り出す。
  • これを見た市議会議員たちは「票になるかも」と問題を取り上げる。

このいじめにあった生徒に何かアドバイスをするには何を言えばいいのかと考えたのだが、こんな感じになった。

  • 先生を含めた大人は自分のことしか考えないからアテにするな。
  • 自分の身は自分で守れ。死んだらいじめ認定してもらえるが得られるものは何もない。後で祭り上げて利用するだけだ。よく考えろ。
  • 友達にたかられそうになったり襲われそうになったら証拠をとれ。自分は絶対に関わるな。ある程度証拠が溜まったら迷わず警察に駆け込め。
  • みんな自分のことしか考えていない。あなたもそうしろ。不満が溜まったら自分より弱い相手を探せ。

これは明らかに間違った教育だが、これくらいしか自分の身を守る方法はなさそうだ。これを「震災ではたくさんの方が亡くなった。だから僕は辛くても生きなくちゃ」と受け止めた子供に伝えられますかということだ。

結局この「心苦しさ」を受け止めて「一人ひとりの大人が防波堤になってよりよい社会を作らなきゃ」と考えない限り、教育も社会もよくなって行かないのだろう。

あの震災で私たちは多分何も学んでいないのだろう。

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