なぜ自殺しないといじめ認定してもらえないのか

昨日は横浜のいじめについて書いた。その中で「死ぬと祟り神になる」と書いたので補足しておきたい。これを読むと「ああ、また日本人合理的じゃない論」かとウンザリしてしまう人もいるかもしれないからだ。

明確な形のいじめなどない

そもそも、世間が考えるような意味でのいじめは存在しない。つまり人間関係では誰かが明確な加害者で誰かが明確な被害者ということはありえないからだ。当事者から見ても外から見てもそれは同じだ。代わりにあるのは集団での個人の利害のぶつかり合いにおいて、下位にいる人が感じるプレッシャーがいじめなのだ。

群れで優位に立って「他人をいじめても当然」と思っているような子は先生に可愛がられている可能性が高い。人気があったり、成績が良かったり、あるいは足が早かったりといった具合だ。つまり、先生や周りの大人たちはある意味でいじめの当事者なのだ。つまり広義の加害者になっている可能性が高く、調停者にも調査者にもなれない。

裁きたがる大人

にもかかわらず、近年のいじめ事件は「明確な被害者と加害者」を作って放置した学校と加害者を罰したがる傾向にある。これは「罰によってしかいじめを抑止できない」という見込みがあるからなのだろう。犯罪まがいのいじめがマスコミ経由で伝わるにつれその傾向が強くなった。このズレは問題解決を難しくするが、第三者は一向に構わないと考える。

昨日「教育委員会に市民がプレッシャーをかけるべき」という人と対話したのだが、教育委員会には独立性があるということを知っても他罰的な発言をやめなかった。案の定「原発反対」論者だったが、元地方議会議員だということである。

「いじめは犯罪である」というのはかなり危険な思い込みなのだが、それでもやめられない人が多い。

「祟り神」の正体

不明瞭な「いじめ」であっても、明らかに「被害者」が決まる瞬間がある。それは、被害者が死んでしまうことである。

この構図は一般化できる。高橋まつりさんのケースを思い出して頂きたい。高橋さんが生きていれば「この人にも甘えがあって会社に対してごねているだけかもしれない」などと思う人が出てくるはずだ。新入社員に過剰な労働を押し付けたりセクハラがあったりと、明らかに「いじめ」の構造があるのだが、当事者間の紛争がある場合どうしても「社会的に有利なほう(学校でいうと成績の良い生徒)」の言い分が通りがちだ。電通でたくさんの過労死寸前の労働者がいながら今まで問題にならなかったのは、多くのまつりさんが死ななかったからなのである。

死んでしまうと、その人には「私利私欲がない」というポジションが得られる。死んでいるから私利私欲など発揮しようがない。日本人は個人が幸福追求する権利があるなどとは思っておらず、私利私欲やわがままだと考える傾向が強い。だから私利私欲がなくなった(同時に生きていたら得られたであろう楽しいことも全て放棄してしまった)瞬間に、同じような苦しみを抱えている人の代弁者に祭り上げられてしまう。

この同じような苦しみを持っている人たちのやり場のない不安が「祟り」の正体で、そのために「祭り上げられる」空白の中心が「神」の正体なのではないかと思う。

よく小学生や中学生が亡くなった時に「死んではいけない」などという人がいる。それを聞くたびに考え込んでしまう。死ななければ「わがままな個人」として扱われる可能性が高い人にどんな解決策があるのだろう、と思うのだ。

生贄としての弱者と中心の空白

いじめはそもそも何が原因なのか。陸軍では多くの兵士がいじめられたのだが、これは大きな目的がなくなってしまったことが原因になっている。戦争に勝つ見込みがなくなると人々は不安になり、下にいる人をいじめはじめる。トップは自己保身に懸命になっており、兵士を助ける決断などしなかった。

電通でも同じ問題が起きている。電通はデジタル化に乗り遅れて、数字の改ざんなどが横行している。しかし、トップは抜本的な改革をせず、不安になった中間管理職が成果を求められて下をいじめ始める。高橋さんの場合、女性であり年次が下だという理由でいじめられていた。つまり、電通が成果を上げられないことの犠牲になっていた。

つまり、目的がはっきりせず成果があげられなくなると下にいる人たちを見つけていたぶるのである。このとき上はリーダーシップを失っているといえる。ではそのピラミッドの上には何があるのか。「実は何もない」のではないかと考えられる。

この「中心が空白である」ことは日本人を語る上でよく使われる。上に相談してきます」といって、上り詰めて行くと誰も意思決定者がいなかったということがよくある。アメリカ人は「誰が意思決定をしているのかがよくわからない」とイラつくことがあるそうだ。会議に「責任を持って意思決定する人」が現れないので「馬鹿にされている」と感じてしまうのである。

この典型例として挙げられるのが、天皇という神である。強大な権力があったのだが、戦前であっても実質的にはなにの権限もなく、開戦を止めることができなかった。にもかかわらず大量の戦死者と原爆を含む都市空爆が出たのは、この空白に多くの人が群がったからだろう。

「天皇が神である」というのは実は西洋人が考えるように神格化されているわけではない。「物言わぬ中心」として祭り上げられていただけなのだ。「天皇制」への回帰が危険なのは、天皇が悪いということではなく、この権力の空白が危険なのである。権力の空白が危険というよりは、何か危機にあった時に何も変えられないというのが問題だと言い換えても良い。

なにも決められないということ

今回の横浜の件は「子供が親の金を持ち出して友達と一緒にさわいだだけなんじゃないの」という疑念があるようだ。よく分からないから加害者のいうことも被害者のいうことも聞かないということになっている。つまり、横浜市の教育は目的を見失っており、権力構造も空白化している可能性が高い。これは多くの大都市で見られる現象なのではないだろうか。

横浜のケースがさらに痛ましいのはこれが「原発」というリスクに関しての反応であるという可能性が排除できないところだ。これは「市の教育」という小さなレベルではなく、国民全体が感じている危機意識である可能性がある。つまり、市の問題ではなくもっと大きな枠組みの問題であった可能性があるのだ。

いずれにせよ、横浜市長は教育長に無害な人を当てることで中心を空白にして学校という権威を守ろうとしていた。教育長は市長の期待通りになにも決めなかった。

実際に必要なのは当事者間の利害の調整だった。こう主張すると「被害者のかわいそうな子供」にも過失があるのかという人が出てくると思うのだが、強く振る舞うべきだと諭すのも教育だと思う。

人は群れを作って弱いものをいじめる。これが抑止されているのは理性の働きではなく、残念ながら警察力のようなものが働いていて群れのメンバーが暴走するのを防いでいるからだ。これを認めない限り、また「死んで解決しよう」という子供がでてくるはずだ。

それに社会が圧力を加えれば加えるほど、教育委員会は閉じて行き、何も決められなくなる。これがさらに中心を空白化させ、事態は悪化する。しかし、決められない事態は救済出来ない子供を増やすのだから、さらに社会的なプレッシャーが増える。まさに悪循環だ。