南スーダン情勢からみる共謀罪の問題点

共謀罪(政府はテロ等準備罪と言っている)が平成の治安維持法だと反発を受けている。賛成なのか反対なのか旗色を鮮明にしたい気持ちはあるのだが、それを抑えつつちょっと考えてみたい。最終的に残るのは「そもそも国とは何だっけ」といういささか扱いに困る問題だ。

さて、南スーダン軍が崩壊しかっているという。南スーダンはもともと複数の非アラブ系の人たちからなる部族連合に国の体裁を与えたものだ。今政府軍を構成しているのはもともとは反乱軍で、北部政府から見るとテロリストに当たる。

彼らは独立後「正規軍」ということになったわけだが、数で劣るヌエル系がディンカ系の人たちとは別の組織を作り、案の定衝突した。武力対立は瞬く間に全土に広がり、ディンカの人たち(つまり政府軍の多数派)がほか民族を蹂躙し始めたという。

Twitterで布施さんが伝えるところによると政府軍のトップが「民兵組織が正規軍の指令系統を乗っ取った」といって辞任したということなのだが、もともとは民兵組織だったわけで、近代的な国軍になりきれなかっただけということも言える。

日本政府が南スーダンに派兵できるのは政府軍があり治安が維持されていると言う前提があるからだろう。この前提が崩れると紛争状態と言うことになり憲法の制約が出てくる。事実上「国」は崩壊しているのだが、ある日「破綻宣言」が出されるわけではない。境界線がないのでいつまでも撤退できない。国連もいったん政府ですよと認めたのに「今日から君たちテロリストね」ということもできない。

さらに日本が逃げ出してしまいそこに中国が付け入ると「南スーダンの利権を取られてしまうのではないか」という意識もあるのではないかと思う。いわばチキンゲームのように国際紛争に巻き込まれてゆく可能性が南スーダンで示されたわけである。

この裏には西洋諸国が必ずしも国際的な治安維持に大きな役割を果たさなくなったという事情もある。各国がアメリカの言うことを聞かなくなったし、アメリカも興味を示さなくなった。これを「Gゼロ」と言ったりする。

さて、国の秩序が崩れると、政府と反政府と言う関係も溶解してしまう。南スーダンで暴れている人たちが精勤軍なのかテロ集団なのかというのは実はとてもあいまいだ。

国を「政府」と「反政府」に分解してしまうと、すべての政治的な意見を持っている人が「今の政府ではだめだ」と思ったとき、その人たちはテロ集団としての最初の資格を帯びるということになってしまう。例えば「安倍首相なんて国益に沿わないからぶちのめすべきなんだ」と書いたとしたら、それはテロリストへの最初の一歩だといえる。ただしそれを認定するのは国家権力で、国家権力を承認しているのは名誉クラブだ。そもそもが恣意的なものなので、テロリストの認定も恣意的になる。

皮肉なことに国家権力が追い込まれれば追い込まれるほど、政敵をテロ集団だと認定したいと感じるようになるだろう。北朝鮮などがよい例で些細なことでも「政治犯」扱いされてしまう。北朝鮮は今朝も「日米首脳会談のお祝いだ」と言わんばかりにミサイルを撃ってきた。発想としてはもうテロリストそのものなのだが、国連に認定された国家なのでむげに扱うわけには行かない。

ここまで考えてくると「一般人」「テロ集団」「政府」は地続きになっていて境目がないことが分かる。故に「あらかじめテロを特定する」のは不可能なのだと言うことも分かるだろう。だが、これは常識的ではない。テロリストは共産主義者のような左派だったり、イスラム教徒だったりという理解があるからだ。

この議論の中で見た一番恐ろしいツイートは「政府はもう誰がテロリストか分かってるんですよ」というものだった。あらかじめ潜在的な政敵が分かっているのだが今の法体系では逮捕できないからさっさと法律を変えてしまえということになる。

共謀罪が支持される背景には「誰が国を転覆するのか分からない」という潜在的な不安があるのだと思う。しかし「テロ等対策」をしたからといってこうした潜在的な脅威があぶりだされると言うわけではない。不安が増せば増すほど疑心暗鬼に陥りすべての他者がテロリストに見えてくるかもしれない。

ミクロのレベルで見るといろいろな情報があり、それに対処してゆかなければならないわけだが、その背景には、国家という体系の一部が崩れつつあって、それがわれわれを不安にしているということは理解して損はないだろう。少なくとも先進国のテロリストは国から異物化されておりオリジナルな出自から切り離された人たちのことだからだ。

その意味では憲法第九条というのは時代に合わなくなってきているのかもしれない。日本国憲法は「国」を超えような武力集団が出ることを想定していないからだ。南スーダンのように国家が不成立に終わっても形式的に独立しているとみなせば「国際紛争ではない」と言い張ることができる。実は冷戦構造やアメリカ軍のプレゼンス(つまりG1ということ)を前提に日本は軍隊を持つべきかそうでないのかという議論をすべきではないのかもしれない。

不安を払拭するためには、普通の政治思想やテロから国家という緩やかな連続体を念頭において、それとどう関わってゆくのか(あるいは閉じこもるのか)という議論をしなければならないのかもしれない。もっとも今の状態でそんな議論ができる環境があるとは思えないのだが。

みなさんはどうお考えだろうか。