女性であると言う苛烈さ

つくづく、女性でいると言うことは大変なことなんだなと思った。常に他人の価値基準で生きており、数での競い合いを強要されているようだ。小島さんはバレンタインデーで男性が数のコンペティションを強要されているという図式を想像しているようだが、そういう実感はない。

なぜこういうプレッシャーを感じないのだろうかと思ったのだが、答えは簡単でまったくモテないからである。かといってこの世の終わりだとも思わない。モテについて女性ほどの苛烈さがないからかもだろう。もうちょっと難しい言い方をすると男性のほうが価値をはかる軸が多いということになる。

かといってチョコに興味がないわけではない。過去にビーン・トゥー・バーをもらったことがあるがよく分からなかった。くれた人はネスレのチョコと一緒にくれたのであまりこだわりがなかったのだと思う。が、産地で豆の味が違うならちょっと勉強したら楽しいだろうなあとは思った。

同じように、男性はシガーやワインを共有することがある。こうした農産物には土と関連するストーリーみたいなものがあるからである。シガーはアメリカのボーイズクラブでは頻繁にやり取りされているし、ワインも気の会った人としか飲みたくない。工業的に味が制御できないので、そういう違いを時間をかけて楽しむような人とじゃないと話していても面白くないのである。

確かに高いほうがおいしいものにあたる可能性が高いのだが、かといって高ければいいというものでもないし、そもそも「おいしい」という価値基準を構築するのに時間がかかる。だから「高いワインだからおいしいでしょ」といわれてもあまりぴんとこないし、口に出しては言われないが軽蔑されることさえある。

さらに土地の農産物は記憶とも結びつきやすい。安いジンファンデル(ドイツっぽい名前なのだがドイツでは知られていないのだそうだ)の方が思い出の味だったりもするわけだ。「あの時馬鹿話して楽しかったなあな」どという記憶が土のにおいとセットになっている。

ところが女性のチョコはコンペティションの対象になっていて、値段と数が評価の対象になっているようだ。つまり待遇の記号になっている。バレンタインデーにチョコを配ると言う昭和の風習は消えつつあるらしい。「バレンタインデーにチョコを渡すリスクが怖い」ということのようだ。ステレオタイプで考えると男性の方が食べ物に興味がなく、女性の方が細やかな知識と関心がありそうなのだけど、実際には逆なのかもしれない。

そういえば女性が見るグルメ番組にはやたらに権威付けの薀蓄が多く、男性が好きそうなカレーとかラーメンには系統とかのシステムに関する情報が多い。男性にとって食事は趣味の領域であり(日常的に準備する役割をになうことが少ないからだとは思うので、こっちのほうが優れているとは言わない)、女性にとっては待遇を決める材料なのかもしれない。

世の中の分析するのは楽しいのだが、ここら辺でやめておく。個人的には鯉にえさをばら撒くみたいにチョコをばら撒く人をみると、食べ物に関心がない人なんだろうなあと思ってちょっと切ない気持ちになる。

ただ、女性はチョコの数を競うような男性が好きなのかももしれないとは思う。何事も「競う」というのはテストステロンの強い影響下にあるということで、多分男性的な魅力は高いだろう。こういう人は競争に(例え負けたとしても)快感を得ているはずだ。