日本の保守はどこにいっちゃったんだろうと言う話

ここ数日、政治っぽい話を書かないでプログラミングの話を書いていた。案の定アクセス数が減る。今のネットがどれだけ不満に満ち溢れいているかということを実感できるよい機会だと思った。今は「世の中はけしからん」と言う話に需要があるのだろう。これにはいろいろな理由があると思うのだが、比較的高い教育水準があるのにそれを生かしきれないことが背景にあるのではないかと思っている。

プログラミングしながら国会論戦を聞いていると無駄な議論が多いように思えてくる。現状を否認したまま「うまく行った演技」をしている人たちと、うまく行かないことを安倍首相に対して絶叫している人たちの二種類がいる。何が原因で行き詰まっているのかよく分かっていないんだろうと思う。稼ぎがなくなっただんなを奥さんがなじっていると言う図だ。そのうち奥さんも働かざるを得なくなり家庭がぎすぎすしてゆく。

議論の中に感情が持ち込まれているのも大きな特徴だ。稲田大臣は頑として自分の論を曲げようとしない。さすがにあきれ果てた民進党議員はそれをなだめすかしていた。後は、保育施設がないと詰め寄っていた山尾しおり議員と、北海道の鉄道が立ち行かないからJR東日本が支援するべきだと絶叫していた共産党議員が印象的だった。

働き方改革も揉めていた。政府は高技能の仕事を作ろうとしてホワイトカラーエグゼンプションを導入しようとしているのだが、残業ゼロ法案だと疑われている。だが、制度を作ってしまうと人件費を削りたい企業に悪用されることは目に見えている。つまり政府や企業に信頼がないので、改革は何も進まない。改革はすなわち誰かが損をすることなのだ。これを「不利益分配の政治」という。

こうした議論のあり方に違和感を感じたのはプログラミングをしていたからかもしれない。プログラムが動かない(あるいは意図したとおりの結果にならない)のには理由がある。だから動かないと小さなプログラムに分割したり、すべてを取り去ってから少しずつ戻してゆくというような方法をとる。「動かない」のはプログラマが間違っているからなのだが、プログラマを責めたりはしない。そんなことをしてもプログラムは動くようにならない。「会議するならデバッグしろよ」とみんな思うわけである。

プログラミングから学べることはいくつもある。すでにある込み入ったものをなおすより作り直したほうが早い場合があると。作った実績はあるので、前のものよりもよいものができる可能性が高い。今あるシステムをすべて再現しようとすると大変なことになるから、新しいものは単機能で簡単なのものになる可能性は高い。でも簡単で軽量のほうが使い勝手が良い。

今までのシステムを捨てて新しいやり方をするということに不安を覚える気持ちは良く分かる。だが、今までのシステムは大きく複雑になりすぎているので、修正が難しい。

不連続はリスクのように思えるが実はそうではないということになるのだが、ほとんどの人はプログラミングの例で説明されてもピンと来ないだろう。だが、日本には中国から受け入れた農業を基にした知恵がある。

例えば、子丑寅卯……と続くシステムは種ができてから枯れるまでの植物の動きを追ったものだ。このシステムが教えるところは簡単で、できたものはやがて枯れてしまうのだが、枯れたからといって終わったわけではなく、種ができるということだ。つまり不連続なように見えて連続しているということを昔の人たちは知っていたのである。

こうした伝統は最近まで保守の政治家も持っていた。例えば政界への影響が大きかった安岡正篤などはこういうことを一生懸命研究しており、つまり昭和の保守の人たちは「大きくなったものはやがて滅んでゆく」と言うことを学識レベルで知っていたはずだ。今ある枯れかけた木を生かすのではなく、種を取るか挿し木をしたほうが早いということが分かっていたことになる。

今では「軍隊を作らないと諸外国に征服される」というのが保守だと解釈されているらしいのだが、これは開国時のトラウマにすぎない。天皇を中心に一つの家を作るのだというのも行き詰まった戦争に国民を総動員するために無理やり作られた反応である。つまり、激烈な印象として残っているトラウマを保守と思い込んでいるわけだ。日本の保守はレスポンシブさにアクティブの仮面をつけているだけなのである。

現在支配的なのは「縮小の原理」だが、これもバブル崩壊後の急性期のトラウマが元になっている。終身雇用制度が支配的だったので急に業務規模の縮小ができなかった。5年くらい「人を切れば生き残れるのに……」という気持ちがあり、それが20年以上続いている。今ある木を急に枯らすわけにはいかないという気持ちは分からないでもないのだが、もうその時期は終わっている。現在は新しい苗を探す時期なのだ。

苗を育てるためには、一人ひとりが何かを作ってゆく必要があるわけなのだが、何かを作れる技術と時間を持った人はほとんどいないのではないだろうか。そうした不満がTwitterに渦巻いており、非難合戦が繰り広げられているのことになる。そのエネルギーの1/10でも生産につなげれば状況は改善するはずだ。しかし、今は何かを生産してもマネタイズする手段がなく、それは単に無駄なこととみなされる。

実はお金はうなるほど余っているのだが投資先がないとされている。日本人はお金を米のように思っている。つまり無駄に消費すると減ってしまってお腹がすくと考えているのだが、実はお金は回さないと何の役にも立たない。うそだと思う人は一万円札を食べてみるといい。このように意外と古いマインドセットは単なる思い込みである可能性が高い。

万物は一定の状態をいつまでも保っていない。その時々にあったマインドセットを持つことが重要だ。保守思想とはこうしたサイクルをまわしてゆくための知恵を持っていたはずなのだが、いつの間にか失われてしまっているのだろう。古いものにしがみつくのは、少なくとも農業国だった日本では保守思想ではなかった。だから本当は保守的な思想はもっと見直されるべきなのだ。

 

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