新しい籠池理事長は何度でも出てくるだろう

ちょっとショックな話を耳にした。前回、小学校では自分を大切にすることを教える前に大義だけを教えると自我が肥大した子供が育つのではないかと書いた。だがこれに対して「日本の小学校は自分を大切にしなさいとは教えない」という人がいたのだ。

結露だけを書くと、これからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろう。また、民主主義を理解しない安倍首相の出現は当然の帰結ということになる。それは民主主義の基本がこの国では全く教えられていないからだ。

にわかには信じがたいのだが、これを教えてくれた人は、日本の学校では自分を抑えて相手に合わせろとしか習わなかったという。いくらなんでもそれは極端なのではと思って他の人の意見を募ったのだが、誰も応じる人はいなかった。黙っているのは意見がないか、言いにくいが概ね賛同していることを意味しているはずだ。従って日本の小学校では「自分を大切に」とは習っていない可能性が高いことになってしまう。ということは家庭で習わなければ一生習わないということになる。

例えば、一人ひとりの大切さを象徴する歌に「ビューティフルネーム」がある。だがこれも英語に堪能なタケカワユキヒデが作り、外国人が参加したバンドが歌っている。そのあとに出てくるのは「世界で一つだけの花」だが、こちらは性的マイノリティの人が作ったどちらかといえば多様性をテーマにした曲だ。つまり自尊心とは外来概念なのだ。

だが、「日本人は自分が大切だということを学ばない」という意見を受け入れると腑に落ちることが多いのもまた確かだ。まずネトウヨの言っていることがよくわかる。他人の権利を尊重することは「自分が我慢すること」につながる。確かに、自分が大切にされないのに、他人の権利ばかりを守れと言われても反発して当たり前である。だからネトウヨの人が言っていることは正しいということになる。

さらに籠池理事長や日本会議が言っていることももっともだ。

自分を大切にするから自ずと相手のことも尊重するというのは西洋式の民主主義の基本になっている。これを天賦人権という。だがこの基本をすっ飛ばしたままで民主主義を受け入れているということは、GHQが天皇に変わる権威だから受け入れたということになってしまう。であれば、選挙という戦いに勝てば自分たちが作った権威の方が正しいということになる。現在の安倍政権は選挙で民主的に選ばれているのだからこれが最高権威なわけで、権威側について都合のよいルールを(自分たちが押し付けられたように)押し付けても構わないという図式がなりたつ。

民主主義を権威主義的に受け入れたという可能性を考えたことがなかったので、かなりショッキングだったが、これでいろいろなことに説明がついてしまうのも確かだ。憲法や平和主義も権威主義的に受け入れている可能性があり、憲法第9条が聖典のように扱われているというのも説明がつく。国連第一主義という権威主義の一種なのだろうということになってしまうが、小沢一郎のいうことなどを思い返すとそれも納得できる。アメリカ中心主義と違う基軸を作るのに国連を持ち出しているのだ。

普通の人は「学校で先生から民主主義だと習ったから民主主義を採用している」ということになる。であれば学校で教育勅語を習えば天皇のために死ぬことを選ぶということになる。権威をめぐる争いなので誰かが正しいということは誰かが間違いということになる。闘争であって議論ではないので、折り合うことなどありえない。

さらにショックなことに日本型民主主義が話し合いでなく、誰が多数派かということで決まってしまうというのも説明できてしまう。数が権威だと考えられているのだろう。

じゃああんたは自分を大切にしろと小学校で習ったのかと反論されそうだが、実は習った。ミッションスクールなので状況が特殊だ。キリスト教では人間は神様に許されて存在しているということになっている。神という概念が受け入れられなければ「自然があるから生きていられる」という理解でも構わないと思う。つまり神の恩寵があるから人間は存在していられるわけだ。同じように他人も神から許されて存在するので大切にしましょうということになる。

ただ、ミッションスクールは聖書の価値観を押し付けない。自発的に信仰心を持たなければ意味がないと考えるからだと思う。聖書研究みたいな課外授業もあるのだが、信徒になれとは言われない。同級生の中には神社の息子もいたので、信仰による差別もないはずだ。実際に特に洗礼を受けようという気にはならなかった。

自分を大切にしましょうと教える宗教はキリスト教だけではない。仏教でも「どんな人にも仏性(ぶっせいではなくぶっしょうと読む)がある」というような教え方をするはずで(調べてみると原始仏教にはなかった概念だそうだが)、仏性を個人から大衆に広げてゆくというような考え方があるはずだ。

このようにするするといろいろなことがわかってくるのだが、分からない点もある。日本人が自尊心を持たないという理論が正しければ日本人は他者に盲従して相手に常に従うはずである。だが実際にはそうなっておらずTwitterに人の話を聞く人はいない。あるいは他人が書いたことの筋を無視して自分のいいように勝手に解釈する人がとても多い。つまり、これほど自分好きな人たちもいないという印象がある。自尊心がないのにどうしてこれほどまでに自分好きなのか、それが何によって裏打ちされているのかがさっぱりわからないのだ。

いずれにせよ「自分を大切にしない」限り天賦人権が理解できるはずはないので、日本人には民主主義が理解できないことになる。接木をしたバラみたいなもので根元からノイバラのように出てくるのが、教育勅語に代表される権威主義的な考え方なのかもしれない。

もしこれが正しいとすると、自分自身で剪定はできないはずで、誰かに刈り取ってもらわなければならないということになる。つまり、西洋世界の指導と監視がないと世界で振る舞えないということで(国際村ではそれがルールだから従っておこうかくらいの気持ちなのかもしれない)、それがなくなれば民主主義は容易に崩壊するだろう。

ということでこれからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろうし、日本会議が多数派工作をして、これといってやりたいことがない二世の政治家を担いで日本の民主主義を骨抜きにするということは起こるだろうという結論になる

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