試合と幸せ

昨日、甲子園で決着がつかない試合が2連続で行われた。そのニュースをみていて「試合」ってへんな漢字だなあと思った。なにを試し合うのかと思ったのだ。そこで語源を調べてみた。

行き当たったのがこのページで、もともとは和語で、為合うという漢字を充てていたそうである。由来は古く奈良時代ということだが、それ以前に文字がなかったことを考え合わせると、古くから使われていたのではないかと思われる。わりと純粋な和語なのだ。

試合の原型が武術にあることは間違いがなさそうだ。つまり今よりももっと真剣なものだったのだろう。リンク先の文章は幸せの語源を試合と同一としている。つまり、試合も幸せも、運命の流れがあり、それに合致しているかどうかということを意味していることになる。つまり、運命を受け入れるのが幸せであって、自ら希望して作り出すものではないのである。日本人が「なる」状態を好み「する」状態を嫌うということがわかる。

幸という字は手枷を意味しており、刑罰から免れることを意味するようになったという記述を見つけた。別の記述もあるので通説のようだ。すると中国人は不幸にならなかった状態を幸せだと捉えていたことになる。これも日本人が考える幸せとは違っている。どちらかというとHappyよりLuckyに近い考え方だ。Luckyの名詞形はLuckだが、これに当たる言葉は日本語にはない。運は巡り合わせの意味であり、必ずしもLuckを意味しない。

英語では試合はGameとかMatchという。二つの言葉が使われるのは日本語の試合が対戦と対戦の総体をどちらも試合と言っているからだ。Gameには競い合いやうでだめしというような意味があり、スポーツだけではなくトランプなどの遊戯から狩りまでを幅広く含んでいる。これはラテン語経由ではなく、古くからゲルマン系の言語にあった単語のようだ。ゲルマン諸語では「ease」の意味だったと説明されている。つまりレジャーに近い意味を持っていたことになる。一方、Matchはラテン語由来だそうだ。取り組みや対戦を意味していて、英語では動詞で使うと「合致している」とか「組み合わせが良い」という意味になる。この段落はここから引用した。

日本人は試合というと武道の果し合いのような真剣なものを想像するが、英語圏ではもっと気楽なものを試合だと考えていることになる。語源は意外と言葉の気分を表している。甲子園の野球大会をゲームというと怒る人もいるのではないか。

面白いことにもっとも神聖で真剣な試合と思われる相撲は、試合という言葉は使わない。一般的に使われる取り組みはmacthの訳語だと思われるが、それについて記述した文章は見つけられなかった。相撲では取り組みという言葉すら一般的ではないようで「割」というそうだ。割とは対戦表のことであって、試合そのものを意味するわけではないようだ。このことから相撲が武道経由ではないことがわかる。どちらかというと農業祭祀の色彩が強いのではないか。いずれにせよ「力士をなぜ選手と言わないのか」などということを気にする人は誰もいないようだ。

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