街から魚屋さんが消える訳

先日エイプリルフールネタで、東京で刺身が禁止されるという話を書いた。そんなことはありえないだろうという前提で書いたのだが、どうもそうではないようだ。

豊洲の最大の汚染源は「ばい菌が繁殖しかねない魚」なのだから魚を禁止してしまえばいいのだというのが話の筋だ。そんなことは本末転倒なので「築地は汚い」という人のカウンターになるだろうと考えたわけである。

魚食について気軽に考えてしまった理由は近所に魚屋があることが影響している。若葉区には石毛魚類という魚屋があり、銚子漁港の魚を卸して公設市場のようなところで売っているのだ。高齢者はスーパーの魚には満足できないので、こうした魚屋に需要があるのだろう。豊洲の移転の問題に都民ほどの切実さを感じないのは、千葉市では産直の魚が気軽に食べられるからなのである。

しかし、他の地域ではこれはあまり笑えない話だったようだ。考えるきっかけになったのはTwitter上の「うちの近所から魚屋がなくなった」というツイートである。

近所から魚屋が消えれば、当然築地市場も縮小する。いろいろ調べてみると築地はピーク時から比べると1/2程度の取り扱い量になっているというエントリーも見かけた。豊洲移転は魚屋が消えてゆく駄目押しにはなるが、直接の原因ではないことになる。

だが、これは政府の陰謀ではない。実は消費者のニーズに応えた結果らしい。消費者は多くの品物が一度に手に入るスーパーマーケットを好んでおり、商店街での買い物を面倒だと感じている。この地域でも商店街は消えつつあるが、原因は駐車場の不足だ。働く人が増えて買い物の頻度が減り、多くの荷物を運ぶためには車が必要になるということだ。一度決めた区割りは実質的に変更できないので、都市計画は消費者の変化に対応できない。そこで空洞化が起きてしまう。空洞化したところには小口のスーパーマーケットが入るが加工食中心だ。人件費を削減しているから工業製品の価格は抑えられるが、生鮮品を手に入れるためには車が必要になる。

効率で収益をあげるスーパーも鮮魚を取り扱いたがらないし、消費者も面倒な調理を嫌う。このため、マグロ、サーモン、イカといった管理が簡単な魚が売れるようになり、自分で「三枚におろす」必要のある魚が敬遠される。このようにして魚の家庭内調理は敬遠されてゆくのだ。

冗談のエントリーでは「東京オリンピックを前にアジア的な魚食文化は後進的で恥ずかしい」と書いたのだが、実際には「面倒で手がかかり不衛生に見える」魚は避けたいという消費者の感覚が魚を遠ざけていることになる。

だが、魚が敬遠されているのは、消費者が魚の味を嫌うようになったからではなく、魚の料理が面倒だと感じる人が増えたからである。水産庁のホームページでは水産資源の二極化の進行が報告されている。つまり、外食で使われる魚の需要は堅調なのだ。

このように魚食文化は変化しつつある。大量に供給できるサーモンなどが寿司ネタとして提供されているのだ。バンダイの調査(添付はPDF)によると、好きな寿司ネタランキングは、いくら、マグロ、サーモン、タマゴ、エビ、納豆の順番らしい。そもそもかつては子供が気軽に外で寿司を食べるということは考えにくかったわけだから、魚食文化は広がっていると言える。一方で、伝統的な大衆魚とされていたイワシやお祝いの代名詞だったタイは忘れさられてしまうかもしれない。こうした魚は骨を避けて食べるのが面倒だ。

中国などとの間で魚資源の獲得競争が起きて魚資源の枯渇も心配されているのだが、これは中国が日本に近づいているということもできるし、日本の魚食文化が単純化されている結果とも言える。つまり日本側でも「安く手軽に魚が食べたい」と考える人が増え、仕分けや調理が面倒な近海魚が淘汰されかけているということになる。

もともとは冗談から始まった話だったのが、意外と深刻な変化が起きているようだ。これを考えてゆくと、豊洲・築地の問題は、現代的な魚流通の要請に応えつつ、観光資源や伝統文化をどう守ってゆくかというテーマになることがわかる。これは伝統的な文化の継承を政治の根幹に掲げる保守主義の政治家にとっては重要な課題になりえるはずで、結果的に日本の保守主義の薄っぺらさを端的に示していることがわかる。

有害物質を生成していた場所に食べ物を扱う市場を誘致する感覚が政治家として不適格だが、伝統的な魚文化を「単に汚いもの」として切り捨ててしまったというのも信じがたい暴挙と言えるだろう。

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