ユングとクンダリニーヨーガ

ちょっとしたスケベ心もあり、ユングがクンダリーニについて言及している本(クンダリニー・ヨーガの心理学)を読んだ。ユングの4回のレクチャーに、付録と解説がついている。ちなみに、この本にはスケベ心を満足させるようなことは一切書いていない。主に人が個人の根源的な欲求から出発して、これを昇華させるまでの様子を西洋と東洋を比較しながら解説している。しかし、その態度は「実践はお薦めできない」というようなもので、理論を遠巻きに観察するという様子だ。一方、クンダリニーヨーガの神髄は実践にある。暴走の危険性もあるので、既にプロセスをマスターした師匠について学ぶべきだと考えられている。
西洋人は金融恐慌と「はじめての」世界大戦を経験していた。その時代になって「無意識」が「発見」される。ユングは少し進んでこの中から「個人を越える心理的な状態」というものを発見しつつあった。ところがインドの体系では、既に無意識や個人を越える心理的な状態というものは当たり前のように実践されていた。レクチャーにはカトリック教会が果たした役割について言及されている。キリスト教は「善」と「悪」を教会が分別するという方法を取った。このため、無意識下の働きのうち教会が悪だと考えたものは予め抑圧されてしまう。ユングは「悪い無意識」として否定されていたものに対して、新しい評価を与えようとしていたと考えられる。
ユングは晩年になって自分が作った体系を異質なものとかけあわせることによってリファレンスしようとしていたように思える。例えばこの本の中には例の「夜の航海」が出てくる。これはヨーガの修行の中では比較的低位のプロセスと関連して言及されている。いったん、情動に飲み込まれてしまう状態だ。双方に関連するキーワードは水で、人は「水に飲み込まれて溺れる」ような状態に陥るというのである。現代的にいうと「コラボ」だが、パウリと共同して物理学と心理学の「コラボ」も試みている。
日本人にとって興味深いのは、我々が可能性としてはインドに代表される東洋的な体系と、(ここでは)ユングが代表している西洋的な体系の両方を実感できるポジションにあるということだ。今回の考察で見て来たように、私たちは自明の事として「集団と個人を分けない」社会観を持っている。と、同時に「自分らしくあらなければならない」とか「それは自己責任だ」というように、西洋流の自分観を取り入れている。こうした見方の違いが子育てで抜き差しならない不調を事もあるし、ファッションに新しい価値を与えたりもするのだった。場合によっては気がつかないうちに「両方を使いこなす」必要にせまられるかもしれない。
インドの体系は仏教を通じて日本に流れ込んでいる。仏陀のレクチャーをまとめたものから出発した仏教は、中期に入ってヒンズー教との競争にさらされる。この過程で呪術的なものを取り入れる。中国人のフィルターを通じて日本に流れ込んで来たのが「密教」の体系だ。普段の言葉遣いにも仏教系の用語が豊富に含まれる。本の中には鈴木大拙の十牛図についての解釈が出てくる。いったん意識的に捕まえてしまえば「探索は意味を失う」というようなことだ。だから追いかけていた牛(牛だけではなく全てが消えてしまうのだが)は一度消えて、探索者は日常生活の中に戻るのだ。つまり、私たちは一度知っていたことを忘れてしまっただけかもしれない。
ユングは東洋の体系をそのまま理解することはできず、枠組みを見ているのだが、私たちは両方を理解しつつ、人が本来持っている意識、無意識、個人、集団といったものについて考察することができるわけである。
さて、この本のおもしろさは別のところにもある。議論の様子を読むので、その場の活気がなんとなく伝わってくる。ユングのレクチャーは人気が高かったようだ。参加者も熱心に無意識の問題について取り組んでいるのだが、質問を受けたユングは、辞典などを使わないで即座に世界のシンボルをリファレンスしながら質問に答えている。話がおもしろく、活気もあり、これは人気が出るだろうなあと思う。時代が体験した不調を出発点にして、人の心理構造について、より詳しく学ぼうという気運が高まった時期なのではないかと思う。