情弱に絡まれたら覚えておきたいルール

面白い体験をした。山本一郎さんが建築エコノミストの森山さんを批判している記事についてコメントしたところ絡まれたのだ。山本さんはいろいろなニュースに首を突っ込んでは話をかき回している。不利な側について話を搔き回す役割を担っているので、誰かが雇っているのかもしれないと思う。

とはいえ、山本さんは形成を逆転することはできないので、情報を足して「なんだかよくわからないなあ」という状況を作り出すというテクニックを使う。リンク先のニュースを見たところ、さまざまな技術的な情報が並んでいて精査が難しくなっている。だが、記事の趣旨はそこではなく「森山さんは怪しい」というものだ。つまり技術情報は飾りである可能性が高いのだ。

ということで、山本さんが通常運転なので「いつものクオリティなんだなあ」と香ばしいようなしょっぱいような優しい目でコメントした。もはや芸と言っても良い領域だし、森山さんが「怪しくない」とも思ってはいない。都の委員を退任されたということで「逃亡だ」という声が出ているのも知っている。だが、それでも山本さんをみると中身というよりも「あ、山本さんが出てきたってことは、豊洲やばいのかな」とか「いよいよ玉切れかな」などと思えてしまうのである。これは仕方がないことだ。

絡んできた人が面白いかったのは「山本さんをdisっているので、当然森山さんの味方であり、と同時に築地推進なんだろう」と思い込んでいるように思えたことだ。つまり「かなりの量の自動類推が働くのだがそれに気がつかない」で話を進めてしまう人が、ネットには結構多いことになる。

そこで「豊洲推進したいんだったら山本さんを出すのはあまり得策ではないですよね」という説得素をしようと思ったのだが「俺は絶対に正しい」との一点張りだった。それだけでなく「お前、俺にチャレンジしてるんだろう」という警戒心が行間からにじみ出ていた。ここでわかるのは「実は豊洲にはそれほど関心がない」ということである。豊洲の移転が白紙になっても別にどうでもいいと思っているが、築地派の意見が通ってしまうのは許せないのである。だから、表題について語っても無駄なのだ。

そこでプロフィールを見に行ったのだが「情弱です」と書いてあった。情報処理に自信がないわけだから「お前リテラシーがないよね」みたいなコメントは火に油を注ぐ可能性がある。そこで「あんな複雑な文章を読んで確信が持てるなんてすごいですねえ」ということにした。すると相手は攻撃する動機がなくなるので、突っかかってこなくなる。実際にそうだった。つまりたいていの人は実は表題ではなく自分にしか興味がないのだ。

つまり最初から豊洲なんかはどうでもよくて「豊洲問題を通じて自分が正しいことを訴えたい」と思っていた可能性が高い。なぜ豊洲問題にそれほどアタッチしてしまっているのかはわからないのだが、小池百合子都知事はいわゆる「生意気な女」カテゴリーなので、それに対する反発があるのかもしれないし、別の理由で自民党が好きなのかもしれない。

この人は明らかに思い込みがあって情報を色々足しながら、結局最終的には「俺を見てくれ」とか「俺を認めてくれ」と言っている。で、それが満たされないと相手に暴言を吐き、妥当しようと試みる。つまり「お前が俺の心理状態を見て、忖度して会話を合わせてこいよ」と言っているわけである。大人の世界では恥ずかしいとされることがネットでは堂々とまかり通る。普段、他人の目が気になってわがままに振る舞えないと感じている人ほど、匿名という安心感から子供返りしてしまうのだろう。

ただ、この人だけが特殊なのではない。例えば、自民党が好き放題しているのは「政治リテラシーが低く政治への参加意識が薄いからだ」と思い込んでいる人たちがいる。彼らはバカだから騙されているだけで、自分たちが啓蒙してやればおのずと野党への支持が集まり自民党政権はなくなるはずだなどと陶酔しているのである。情報は多く出ており、それでも野党支持が集まらないのだからなんらかの理油があるはずだ。が、それは全く考えないのだろう。

つまり情弱という人たちは、情報リテラシーが低いわけではなく、物事の理由を「相手がバカだから」と考えるという点と、信じているソリューションが非常に単純であるという点に問題があるのだ。絡んできた人は「山本一郎が正しいということを証明できれば、女が政治にしゃしゃり出てくることはなくなる」と考えているのだろうし、野党共闘の人たちは「野党さえまとまれば自民党政府は終わる」と信じているのだ。

本当に「やばい」と思ったら、どうにかして状況を変えなければならず、そのためには原因の特定が必要になる。が、民主主義の危機を叫んでいる人たちにそんな形跡は見られないので、実はそれほどの危機意識はないという結論になる。つまり野党共闘を叫んでいる人たちも実は民主主義なんて自然と守られるくらいにしか思っていないのだ。だが、こうした思い込みは社会を健全に保つためにはかなり有害なのかもしれない。