砂漠化する政治議論

面白いツイートを見かけた。選挙を控えている熊谷千葉市長がツイッターで絡まれている。もともとは零戦が復活するという話なのだが、これに「零戦=日本軍=悪」という人が絡んだ。それに対して、共産党にも反省すべき歴史があるが共産党が全面否定されるわけではないですよねと返したところ、熊谷市長は共産党とソ連の関係を知らないと非難されたのだ。

唐突に共産党が出てきたところには違和感があるのだが、今度の市長選挙の対抗勢力は共産党しかなく、選挙がらみだと考えたのかもしれない。が、全体としては他愛もない話でしかない。

面白いことに、このところ熊谷千葉市長はツイッター上で「炎上」しているらしい。どうやら「政治家=右翼」という図式があるらしく、ジェンダー系の話を「右翼の人権侵害」みたいに捉えているらしいのだ。この話が面白いのは、千葉市で熊谷市長が置かれている状況と部外者の印象がかなり異なっているという点である。

もともと千葉市は自民党を中心に金権政治が行われていたところであり、民主党から出た市長は若くてリベラルだという漠然とした印象がある。が、こうした文脈は千葉市以外には伝わらないのだろう。そこでいろいろな人が自動的に個別のツイートに噛み付くという状態になっているようだ。政治家の発言にアレルギーを持つ人が多いのだろう。いずれにせよ、千葉市には対立候補を擁立する政党は共産党以外にはなく、こうした炎上は政治には何の影響も与えないのだ。

こうした部外者が政治問題に口出しをするケースはもはや日常化してしまっている。日本人が政治に関心がないというのは嘘だろう。この構図は豊洲問題にも見られる。豊洲問題は日本人がなぜプロジェクトをまともに扱えないかというケーススタディーとしては面白いのだが、所詮は東京都民の問題である。にもかかわらず全国各地の人たちがツイッターで「参戦」してきて、落とし所がない「議論」を繰り広げている。つまり、なんだかよくわからないが部外者が「気軽に政治的な話題に参入してきて落とし所がないままで相手の人格を否定しようとする」ということが常態化しているのだ。

もちろんこれは日本だけの問題ではない。例えばアメリカでは政治的騒乱は必ず暴動に発展する。窓ガラスを割ったり、商店を略奪したり、車を転倒させたりするようなことが行われるわけだが、これは政治的議論にある程度の知識や技術が必要とされるので、それができない人たちが騒ぐのだ。日本では政治的議論がこうした「暴動」の場になりつつあると言えるだろう。

こうした状況は幾つかの理由により建設的な議論にはつながらない。例えば自民党には熱心な「サポーター」が大勢いて日夜宣伝工作を繰り広げている。が一方で会費を払って党員になる人はそれほど多くはないらしい。一般党費は4000円でしかない。これはお金をもらってTwitterに悪口を書き散らしている人は多いが、お金を払って政治家をささえようなどという人はいないということを示唆している。お金をもらって暴れる人や、お金はもらえないがなんらかのベネフィットを求めて体制擁護の意見を書き散らしている人は見かけるが、議論に参加しようという人はいない。

建設的な政治意見をいう人はいないのだが、ちょっとした政治的な意見表明すらできなくなっているらしい。政治的意見を公的にいうことは「危険だ」という空気が生まれつつあるようだ。

共産党の機関紙「赤旗」によると。政治コメディーを扱うザ・ニュースペーパーは森友問題をテレビでやれないということである。高市早苗総務大臣が「停波をほのめかす発言」をしてからテレビ局が萎縮しているのだろうというような分析になっている。前回、ザ・シンプソンズを引き合いに出してテレビで政権批判をしても別に生死に関わることはないと書いたわけだが、正直なところそれは間違っていたのかもしれないとすら思った。ザ・シンプソンズはトランプ大統領をかなり批判的に書いているが、トランプ大統領に近いFOXのコンテンツだ。

そもそも、どうしてこのようなことが横行することになったのだろうか。こうした空気が広がったのは、安倍政権が国民の声を聞かなくなった頃からだ。「決められる政治」を標榜して、どんどん物事を決めてゆくのだが、説明がめちゃくちゃで、議論をするつもりはないらしい。最近では「そもそも」という言葉の使い方を巡って騒動が起きている。憲法の解釈もめちゃくちゃなら、言葉すらデタラメということで、議論が全く成り立たない。さらにマスコミを恫喝したのでまともな議論が表舞台から消えてしまった。

日本人は政治的な意見表明のロールモデルを持たなくなったので「脊髄反射的に相手の人格攻撃をする」ことが政治的な意見表明だと思い込むようになったのだろう。恐ろしいことにこれが拡大再生産されて、政党の議論すらおかしくなりつつある。

公の場で相手を否定せずに意見をすり合わせてこなかったツケは実はかなり大きいのではないだろうか。誰も決まったことに責任や愛着を持たないのに、社会を支えて行こうという気持ちになれるはずはないからだ。「政治的な意見表明が行えなくなったら安倍が戦争を起こす」ということはないだろう。が、国民が政策決定に関わらなくなれば民主主義は内側から壊死してしまうのだ。

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