日本人が議論ができないのは日本語のせいなのか

前回のエントリーについて、こういう感想をいただいた。

前回言語的なことは避けて書いていたので「ああ、やっぱりここにきちゃうのかあ」と思った。言語論にあまり乗り気ではないのは、これについて考え始めるとチョムスキーくらい読んで言語学の知識を得なければならなくなりそうだからだ。

日本語が議論に向いていないというのは確かなように思える。確かに語順によるものとも考えられるので、最初に検討してみよう。日本語では動詞を先に持ってきて会話を成立させることも可能だ。日本語はマーカーをつけて文法的な地位を表示する言語であり、語順はあまり関係がない。

  • 食べた、俺パンを。

また、パンを見てこう呟くこともできる。

  • 嫌い!大嫌い!

日本語は「何を扱っているのか」を記述しなくても文章が成立してしまう。だから、主題に焦点を当てるのが難しいという特徴がある。英語だとhate! といっても憎しみという単語を連呼しているだけになってしまうので、最低限でもI hate it!と言わなければならない。次にありきたりな文を見てみよう。同僚がおにぎりの袋を持っているのを見てあなたが言った一言だ。

  • 日本語
    • 今日はパンじゃないんですね。
    • はい、パンじゃないです。
  • 英語
    • You don’t eat bread today.
    • No, I don’t eat bread today.

まず、日本語は「あなたのいったこと」は正しいという意味で「はい」と言っている。関係性を意識しているのがわかる。英語は「私(あなた)がパンを食べる」ということを否定している。これが主題だ。さらに日本人は「私が食べる」ということを言っていない。それがわかるのは共通の認識を持っているからだ。この文章を不思議がる人は誰もいないし、類推できなくて疲れたということもない。

一方、英語でもIt’s not bread.とは言えるわけだが「あなたは昼食にパンを食べないのね」という意味は持たない。これは単におにぎりがパンではないということを言っているだけだからだ。多分「何を当たり前のことをいっているのだろう」と思うだろう。You are right!ともいえるが、これは過剰な待遇表現になるのではないかと思う。英語でも相手を肯定して「へつらい」を示すことはできるのだが、通常はそこまではやらない。

だが、それでも「今日は」が持っている複雑さはわからない。こんな事例がある。QUORAにあった「恥ずかしい日本語の間違い」というトピックから抜粋した。「今日かわいいね」と言ったら女性に怒られたというものだ。正しくは「今日かわいいね」と言わなければならないそうだ。

「今日は」には限定の意味があり、主題や主語のマーカーではないのだ。今日はかわいいといってしまうと、昨日はどうだったんだということになる。が文章自体は「今日かわいい」といっているだけであって、昨日のことは特に言及されていない。が日本人はそこに限定の意味を見出してしまい「じゃあ、昨日は」などと思ってしまうわけである。つまり「今日はパンじゃないんですね」という会話には「いつもと違うけどどうしたの」という含みがあるのだ。

日本語は主題を限定しないで会話が作れるので、文章を接続する時に最初の文章と次の文章で主題を変えても構わないということになる。この特徴のために日本語を英語にする時に間違いが起こることがある。実際の英文は忘れたが、こういう文章(ピリオドは1つしかない)を見たことがあった。

日本に投資する、こんな会社がリストされている。

こんな会社とは東芝のことだ。実際には、適切な会計報告をしていない会社を上場させたままにしている東証一部には投資すべきではないということを言っている。元の日本語は「こんな会社がリストされているのに日本に投資する」だろう。多分英語では言いたいことを言わなければならないので、「あなたは東証一部に投資すべきではない。なぜならば……」という文章を言及する必要がある。さらに、文章の主語は統一しなければならないというルールも存在する。

つまり、日本語を英語にするためにはかなりの情報を追加して文章を整理する必要がある。ここで必要な追加要素は次のようなものだ。

  • 主題:あなた
  • アクション:投資する
  • 関係性:にもかかわらず
  • 関係性:こんな会社をリストしているところの

いろいろなものを手当たり次第に見てきたのは、日本語ネイティブの人が日本語の特徴を知るのが極めて難しいからだ。日本語はかなりの情報を補っているということがわかる。

ここまで見てゆくと、日本語が「合理的でない」のかという問題が出てくる。だが、そもそも意識の流れというのは主語を持たない。私という固定された視点があり、そこに入ってきた情報(光、音、頭の中の考え)の流れがとりとめもなく展開されてゆく。午後取り組まなければならない仕事のことを考えていたのに、テレビで政治家の不正のニュースをみながら、お昼ご飯のことを考える人もいるだろう。つまり、思考にピリオドはないので主語もおけない。関心人の焦点があるだけである。

日本語ネイティブの英語話者が、モノリンガルな人の発言を「論理的でない」と感じるのは、翻訳を通じて論理的な文章構成に触れているからだろう。モノリンガルな人もそれを知覚しているはずだが、無意識のうちに行われるのでそれを意識することができないのだと考えられる。

いくつかの論文を読むと、英語は「論理」を記述しているのだが、日本語は「今の話し手の意識の流れ」を記述しているという説が見つかる。さらに、会話の文末をぼかしたり、そもそも言わなかったりということが多いようだ。そもそも日本語の会話の半数が「述語を持たないという観察もある。主語も明確でなく述語も持たないのだから、その会話の目的は何なのだろうかということになる。つまり、これは日本語の会話がそもそも叙述を目的にしていないのではないかと予想できるわけだ。

ここまで長々と書いてきたわけだが、ここまで見てきても日本語が何の情報を交換しているのかということはよくわからない。

冒頭の書き込みに戻る。否定的な書き込みが必ずしも反論になっていない理由は、多分そのトピックそのものが関心の焦点ではないからだ。つまり、トピックはどうでもよいということになる。ではどうでも良いことになぜ噛み付くのかという問題が出てくる。

経験的に思い当たるのは、発言した人(Aさん)の人格を否定しているという可能性だ。会話の術部を省略して相手に決めさせることが「待遇」になっているわけだから、逆の待遇も有り得る。異議を申し立てることで関係を記述しているのだから、主題がずれても構わないのだ。普段の生活の中ではBさんは、語尾をぼかして相手に決めさせているのかもしれない。

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