教育と警察の違いについて考えてみる

なんか恐ろしいTweetを見つけた。教育委員会が独自に調査することを「治外法権」と言っている。

何が恐ろしいのかを説明する前に、前提を整理しておきたい。それは教育と警察の違いだ。警察力の目的は反社会的な行為を罰してから社会復帰を目指してもらうとことにある。つまり懲罰が目的(の一つ)になっている。なぜ懲罰が必要かというと、権力に委託せずに個々人が勝手に「調停」を始めたら収拾がつかなくなる可能性があるからである。例えば、日本では果たし合いは禁止されている。日本人は殺された家族の敵をとる権利を奪われているのだが、結果的には安心して暮らすことができる。なぜなら報復的に殺された人の家族が、報復をしかえすということがないからである。

これが成り立つためにはいくつかの前提条件がある。一つは一般庶民が警察を信頼しており、懲罰権を委託した方が安心だと考えているということ。もう一つは一般庶民が、何がよくて何が悪いかと理解しているということである。

例えば小学生は何をしていいかを十分にわかっていない可能性がある。だから、何か反社会的なことをしたとしてもそれがいけないことだと思っていないかもしれない。そこで、それを未然に防いで再発を防止するというのが教育の目的の一つだということになる。

これが、普通の国で警察と教育を分離するそもそもの目的であると考えられる。

一方、治外法権というのは、ある法体系の中にそれに従わない人たちがいるという状態を意味する。例えば駐日米軍は「実質的に」治外法権状態におかれているが、これは彼らがもともと占領地であって<未開>な法体系を持つ現地警察を信頼していないからだと考えられる。戦前の中国には中国の法律が及ばない地域があったが、これも<先進国>が<未開な中国>の法律を信頼していなかったからである。

つまり教育を治外法権だと言ってしまうと、それは教育機関は一般の基準とは異なった価値体系を持っていて「勝手に判断している」と言っているのと同じことになってしまうのである。それは教育が警察を信頼していないということだ。それを平然と言えてしまうところに恐ろしさがある。民主主義に関する根本的な認識を欠いているのだが、発言権がありテレビなどで見識を欠いたままの意見を<垂れ流し>てしまうからである。それをまねてた人たちが議論をコピペする頃には何がなんだかわからなくなってしまう。

もちろん、実際には教育と警察の間にはさまざまな現実的な問題が発生している。いじめ問題を調査した結果「可愛い生徒を被害者と加害者に分けられない」などと言って教育機関としての責任を放棄してしまう教育委員会もある。さらに、教育者が実は社会的な善悪の価値基準を持っていないように見えることも多い。そこで、集団的な圧力が働き「悪いことがあったけれどもそれを隠してしまおう」と考えて隠蔽に走ることも珍しくはない。

さらに、大学のように「教育はできるだけ権力に制限されないで学術を追究できる自由が保障されるべきだ」と考えている人たちもいる。自民党の教育に関する議論を読むと「教授たちは社会主義思想に毒されて教育の自由をはき違えているから取り上げるべきだ」などという被害妄想的な議論がある。実際に、学長や理事長たちがカリキュラムをかえられるように変更が加えられ、日本の大学では今大変な問題が起きている。

つまり、教育と警察を巡る議論にはいくつかの(ここでざっとみただけで3つの)違ったレイヤーがあり、これを一緒くたにして議論するとまとまるものもまとまらなくなってしまうのではないだろうか。

この議論が専門家にどう受け取られるかはわからないのだが、高度教育の問題を別にすると、教育と警察を巡る議論についての態度はいくつかにわかれるように思える。

  • 教育の自主性は保たれるべきであり、教育者にはその資格があると考える立場。つまり、警察は教育に介入すべきではない。
  • 教育の自主性は保たれるべきだが、実際には教育者たちにはそれを守る資格や能力がないので、社会的な介入が必要という立場。が、警察が介入すべきかどうかはわからない。
  • そもそも教育の自主性などというものは絵空事であって、社会は積極的に子供たちを罰しなければならないという立場。

こうしたレイヤーを間違えると議論がめちゃくちゃになりかねないのだが、実際にはめちゃくちゃな議論が横行している。その背景には先生になる人が、教育の独立性が「なぜ重要なのか」ということを考える機会がないからなのではないかと思う。

そこに部外者たちが大量に参入することで、却って教育現場がゆがめられることになるのではないだろうか。

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