ディビッド・ケイ氏はマッカーサーではない

国連の報告者であるディビッド・ケイ氏が日本のマスコミについて注文をつけた。この過程で日本の記者たちからなぜか匿名での情報を提供があったそうだ。つまり記者たちは常々報道のあり方に疑問を感じているようなのだが、それを自分たちでなんとかしようという気持ちはないようである。「誰かがなんとかしてくれないかなあ」と考えていることになる。

ディビッド・ケイ氏の注文は主に政府の規制や新しい法律に関するものだが、マスコミのインサイダーたちの中には記者クラブ制度に強い不満を持っている人もいるようだ。が、本当に記者クラブ制度は問題なのだろうか。

最近の政局はそもそも場外乱闘の形で起こることが多い。主な発信源はNHKや朝日新聞社へのリークや、週刊誌への情報提供である。記者クラブはその後追いとして、政府の言い分を取材する役にしか立っておらず、すべての報道が記者クラブによってコントロールされているとはとても言えない状態だ。

にもにもかかわらず記者クラブ「だけ」が存在感を持って見えるのはどうしてだろうか。これは記者クラブがなかったらどうなるかを想像してみればわかる。記者たちは特定の記者クラブで雑巾掛けの修行を始める。もともとは文学部とか法学部などのジャーナリズム専攻でない学部を出た人たちで、OJTで取材の仕方を学ぶわけである。この人たちがマスコミ内部で名前を売り、生き残った現場志向の強い人たちがフリーとなり、ジャーナリスを名乗るようになるという構造になっている。

つまり、記者クラブは学校の役割を果たしており、記者クラブをなくしてしまうと「どうやって官公庁の取材をしていいのか」がわからない人ばかりになってしまうということを意味する。日本にはジャーナリズムを教える学校がないので、記者クラブがなくなってしまうと記者教育ができなくなってしまうのだ。

学校ができない理由は何だろうか。第一の理由は理論的な裏打ちの不在だろう。例えば、ジャーナリストは権力から一定の距離をおくべきだというような、倫理規定が日本にはない。こうした倫理規定ができるのは、裏にジャーナリズムは権力を監視し民主主義を健全なものにする役割があるという自己認識があるはずなので、日本人にはそうした意識がないことがわかる。

さらに、現場の記者たちは後進をマネジメントしたり仲間を育てることを嫌がる。現場志向が強いからだと考えられるのだが、それだけではなく「ライバルが増える」ことを嫌がっているのだろう。獣医学部も参入規制があるそうだが、ジャーナリズムは学校を作ることさえ嫌がるのだ。

もしフリーの記者たちが本当に記者クラブ制度はいけないと考えているなら、自分たちの仲間を増やす努力をするはずだ。SNS時代なので、こうした書き手は新聞社などに入ったことがない人たちで読み手を兼ねている可能性が高い。が、ジャーナリストの人たちは優位性を保ちたいので、こうした人たちを敵視してしまうことが多い。

共通の意識もなく競合者同士で協力もできないので、ジャーナリストはまとまれない。そこで外国から来た人に匿名で告げ口することになる。政府から弾圧されているから表立って行動できないという理解は必ずしも正しくないのではないだろうか。

さて、理論的な精緻化をはからず、仲間や後進を育てないということのほかに、ウェブメディアならではの問題も出てきている。TBSのジャーナリストにレイプされたという女性ジャーナリストに対して「枕営業をしかけたのではないか」というセンセーショナルな発言をした池田信夫氏を例に説明したい。

アゴラはもともと専門家の知見を活かしてウェブならではの提言をするという名目で設立されたのだと思うが、新田氏(この人も問題のある発言で知られる)を編集長に据えたあたりから、おかしなことになってきている。

もともと池田さんはNHKの出身なのだが、メインストリームでポジションを得られなかったことでウェブに新天地を求めたのだと思う。やがてネット上でプレゼンスを得てゆくのだが、編集長の新田氏のWikipediaに面白い記述があった。民進党の蓮舫代表を叩いたことでページビューが大きく伸びたのだそうだ。

2015年10月、アゴラ研究所所長の池田信夫のオファーを受け、池田主宰の言論サイト『アゴラ』の編集長に就任[5]2016年9月に行われた民進党の代表選挙に出馬した蓮舫の二重国籍問題を、八幡和郎と池田がいち早く追及した際には編集長としてバックアップし、就任1年で、月間ページビュー数を300万から1000万に押し上げた[6]

新田さんと池田さんが女性に対する差別主義者だという見方はできるのだが、もしかしたら「ビジネスマッチョ」なのかもしれない。気が弱く女性との競争に負けつつある「サイレントマジョリティ」の男性のニーズがあるのだ。普通の人たちが言えないルサンチマンを代わりに晴らしてやるとそれだけ支持を集めるという構造がある。女性に対するヘイトスピーチにはそれなりの商品価値があり、それが「女は枕営業だからレイプされても自業自得(ただし一般論ね)」というような言説がまかり通ってしまうのである。

同じことが反体制側にもいえる。Literaなどが代表例だが、岩上安身氏のようにかなり過激に安倍政権を批判する人たちもいる。彼らもジャーナリスト業界から流れてきた人たちなのだが、民主主義を健全に保つために権力から距離をおくべきだという行動規範はない。このことが結果的に民主主義を両側から不健全なものにしている。

よく、ウェブは掃き溜めだなどというのだが、実際に掃き溜めにしているのはこうしたマスコミ崩れの人たちだ。民主主義と言論の関係について理論的に学んだわけではなく、仲間同士で研究しているわけでもないので、特に言論に品位を持とうとか、是々非々の距離で付き合おうとは思わないのだろう。

現在の安倍政権は露骨なマスコミ干渉をしてくるので、「マスコミへの弾圧」のせいで密告が増えているという感想を持ちやすいが、実際にはまとまれないことの方がより深刻なのではないかと思う。デイビッド・ケイ氏はマッカーサーではない。結局のところ自分たちでなんとかすべきなのだ。

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