民進党の支持が集まらない理由を考える

最近、民進党に支持が集まらない理由を考えていた。強力な野党がないと自民党がいつまでもデタラメを続けるのは明白だ。国会の答弁はもはやめちゃくちゃなのだが、背景にはやる気のない民進党の存在がある。

「Twitter受けを狙うようなその場しのぎのことばかり提案するのがいけないのだ」などと考えていたのだが、気晴らしにダイエットについての文章を書いていて「ああ、そうか」と思うことがあった。

ダイエットしたい動機はいくつもあるだろう。好きな洋服が着られるようになりたいとか、自分に自信をつけたいとか、爽快な気分になりたいとか、モテたいとか、人によって理由は様々だ。

しかし、ダイエットを始めるに当たって隣にだらしなくお菓子を食い散らかしている人がいたら腹がたち、ダイエットの妨げにもなるだろう。そこでお菓子を食い散らかしている人に「ちゃんとする」ように言ってみるが、いうことを聞かない。そのうちに、どうやって相手を説得しようかということが気になり始めてそればかりを考えるようになる。

これが無駄である理由は2つある。お菓子を食い散らかす人はダイエットをしてすっきりとした体型になった時の爽快感を知らないし、知るつもりもないだろう。そして、食事制限をしたり運動をしたりといった実践がないと実際にやせて行かない。つまり、相手を攻撃しても何も生まれないのだ。

つまり、最初にあるべきなのは「どういう理想形を志向するか」ということであって、それが決まったら試行錯誤しながらも「実践」をしなければならない。実践しているうちに邪魔なことが出てきたら対処する必要があるだろうが、その活動に割りあてる時間は最低限であるべきだ。「お菓子を食べている人を攻撃する時間があるなら一時間歩けよ」ということである。

民進党が支持を集めない理由は、自民党の攻撃ばかりしていて建設的な提案をしていないからだ。この指摘は届いているようで、民進党も国会でいろいろ提案をしている。しかし、どれも場当たり的なものばかりで全体像が見えてこない。例えば、今回は文書保全の法案を提出すると言っているが、これは自民党政権下で文書の隠滅工作が行われることに対する面あてにしか過ぎない。

民進党は国会に議席があまりないわけだから、とりあえず地方レベルから改革を始めて一つでも「首長が変わってよかった」とか「議会に緊張関係が生まれた」などという実感を得るように努力すべきだということになる。

ダイエットについて見た時、一つひとつの行動での変化はあまり大きくないということを学んだ。つまり、太っている人がいきなりスーパーモデルになれるわけではない。しかし効果的な行動には意味があり後々効いてくる。一足飛びに国を変えることはできないのだが、一つひとつの実践がのちのち効いてくるはずだ。

さて、これについて考えていて「では何を志向すべきなのか」ということについては考えがまとまらなかった。体重が減ると体が軽くなり、様々な洋服が似合うようになるわけだが、一番変わったのは爽快さだ。体が動かしやすくなり関節などへの意識が高まると、血流が良くなったり背筋が伸びたりする。最終的にはこれが意識の改善につながってくる。やはり病気がもたらす不活発さは陰鬱な気分を増すということがそこで初めてわかるのだが、病気の状態でこの活発で気持ちの良い状態を想像するのはとても難しかっただろう。

現在は政治や社会そのものについて疑念があり、とても「この世の中をもっと良くして次世代に引き継いで行こう」などとはとても思えない。

この爽快な状態を表現するためには「正義」でなくて「内なる善」を追求すべきだと書きたいのだが、体からおのずと湧き上がる爽快感と違って「内なる善」は独りよがりの正義の押し付けになりがちなのではないかと思った。自分が実践して気持ちがいいなあと思うことをついつい他人に押し付けたくなってしまう。

例えば、英語ができて海外に友達ができると色々と経験の幅が広がる。例えば外国に行って現地のレストランを案内してもらったことがある。友達付き合いのやり方がちょっと違っていたりもするのだが、またそれも面白いものである。多様性を受け入れるということは楽しいことなのだ。だからヘイトスピーチをみるとついついそれを疎ましく思ってしまうのだが、自分が多様性を楽しんだからといって、それを相手に押し付けてみたところで何も生まれないし意味がない。

多分、現在なら外国人の友達がたくさんいることをFacebookで見せびらかしたりして心地よさを深めることができるかもしれない。これは「多様性も良いものだな」と思わせる効果はあるが、やはり過剰な自意識から「他人に自慢したい」という意識も湧いてくるのではないだろうか。他人の羨望や絶望感と比較して得られる善が無条件に心地よいものかどうかはよくわからない。さらに、日本人だけで固まっている人たちを攻撃して「俺は多様性を理解しているんだぞ」という段階に入ると、それは明らかに心地よさからは遠いところにあるように思われる。つまり「善」は認識するのも難しいし、それを保つのも意外と簡単ではない。

多様性の享受は内面の心地よさを生むので、多分善なのだと思うのだが、それを他人に押し付けることは善になるかはわからない。そもそも、多様性が気持ちいいということは経験してみないとわからないだろう。政治の世界では価値観の押し付けや相手の否定をよく見かけるし、それが人を動かすのもまた確かなことである。

さて、話がかなりそれてしまったが、民進党に限らず野党が支持を集めないのは、政治が心地よさを生まないからだろうということまではわかった。しかし、それは価値観を押し付けることになりかねない。何を実践してどのような心地よさを得るべきなのかということについては、もう少し考える必要がありそうだ。

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