なぜ政府批判は封じてはいけないのか

最近、政府の記者会見などでは記者がキーボードを打つカタカタという音だけが聞こえるのだそうだ。忙しい記者たちが仕事を早く片付けたいからだと思うのだが、多分自分たちが何をやっているのかという意味が見出せていないのではないだろうか。これは民主主義がじわじわと自殺しつつあるサインだと言える。

最近、政府と反政府の人たちの間の対立が激しくなり、政府批判は自民党の追い落としを意味するようになった。「安倍政権もうなんでもいいから消えろよ」というわけだ。この極端なゼロイチ思考は様々なところで見られる。最近では不倫疑惑を持たれたカップルのうち有名な方を晒し者にして社会的な死を求める運動も見られる。覚せい剤を使った息子を持った有名な俳優に仕事をやめさせるという圧力も働く。批判に慣れていない分、一度批判が噴出すると誰にも止められなくなる。そこで、社会的な死をもたらすまで晒し者にし続けるという悪い習慣ができた。

そもそも批判とは何だろうか。いろいろな考え方があるだろうが、ここではプログラミングのバグ取りだと考えてみよう。つまりより良いプロダクトを作るためにみんなで協力するという作業がジャーナリズムなのだ。

誰かが作ったプログラムにはミスが起こり得る。これを防ぐために何回も見直してから出すことは可能だが、時間がかかりすぎ効率的ではない上に、完全に問題を取り切ることはできないかもしれない。ちょっとしたミスが出る前提でβテスト版を出せれば、それが一番効率が良い。民主主義も同じで、人が作ったコードである以上間違いを含んでいる、だから、モニターしてチェックするわけである。

誰も間違いを犯さないという前提はなんとなく権力者には都合が良いように思えるわけだけれど、実は検証のコストが極めて高い。間違ってもその間違いを認められなくなる。だから、周りの人たちが間違いを指摘してくれた方が楽なのだ。

安倍政権の中の人たちは「俺たちは絶対に間違えない」という前提でいるようだが、これは自分たちの責任を軽視しており、何かあっても責任を取らないからなのだと思う。が、実はそれを批判する側も批判することの役割を放棄している。右から左に情報を流し、あからさまな間違いがあった時だけ大騒ぎした方が楽だからだ。

間違えるつもりがなくても間違えるということはある。例えば、地元の千葉市では財政再建が行われる過程で人件費の抑制が行われているようである。いろいろと無理が生じているらしいが、お互いの職域を侵犯しないという不文律があるようで、問題を是正したりお互いにカバーすることができない。評価に絡むことなので、市長に指摘して睨まれたら大変だと思っている人もいるようだ。このため、些細な問題が積み重なっている。

そこで通報制度を使って「どうなっているんですか」という問い合わせをすることがあるのだが、決まって担当者が「責められている」と感じるようである。直接電話がかかってきて「説明したい」という人もいる。公式ルートで上がると文書として記録が残る上、市長にも見られてしまうので、それを避けたいのかもしれない。

特に誰かが私服を肥やしたいと思っているわけではなくてもこうしたことは起こるのだ。それを放置することもできるのだが、結果的には恒常的な不満につながるか、大きな事故に発展することになると思う。が、普通市民が関わるのは選挙の時だけである。

これに対応していると、思い込みの強さを感じる。誰かに問題を指摘されると「その人の人格が否定された」という気分に陥るようだ。さらに、問題を対処する側も「誰が犯人なのかを特定して、その人にバッテンをつけて終わり」ということが多いらしい。組織が責められていると感じ、それを個人に転嫁したくなるのだろう。日本の社会に特有の「個人のせいにして終わりにする」という悪い癖が抜けないようなのだ。だから、問題は隠蔽されることになり、公の場に持ち出して改善して行こうという動きにつながらないのだろう。

さらに、関係者が問題を表に出して、検討しようという文化がそもそもないらしい。何人かの人に「この機会を利用して、みんなで話し合ってはいかがですか」と言ってみたが、全くピンときていないようだった。すべて個人の能力に帰結させてしまうのだ。昨日電話をかけてきた人は、自分は責められていると思い込み「直接会って説明したい」と言っていたが、責めているわけではなく、問題がどこにあるのかを探す機会にしていただきたいというと黙り込んでしまった。多分、何を言われたのかはよくわかっていないと思う。日本の組織にはそれくらい「自分たちで考えて、仲間同士で助け合う」という文化が欠落している。

民主主義にとって批判はバグ取りにすぎないと考えてみるのはとても大切だと思うのだが、現場の記者たちがその気になれないのは、受験勉強が個人競技であって、そのあと「絶対に間違えない(何も実行しないのだから当然だ)」マスコミに入ってしまったからかもしれない。QAのつもりで行動するという気持ちになれないのだろう。その上、日本の組織にもお互いに助け合うという文化はないので、それを他の組織にも応用してしまうわけだ。

菅官房長官の「批判は当たらない」は、プログラマーが「俺の作ったプログラムには絶対バグがないから、動作不良に見えてもそれは気のせいだ」と言っているのと同じだ。自動車に言い換えれば「俺の作った自動車は完璧にプログラミングされているから、事故を起こしたらすべてユーザーのせいである」というようなことになるだろう。誰も、そんな人の作った製品は買わなくなるだろう。にもかかわらず、それしか選択肢がないというのがこの国の抱えている不幸なのかもしれないのだが、実は政府の側だけでなく、それを見ている人たちにも問題はあるのだと思う。

 

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