その居酒屋的議論の理由

つい先日、久しぶりに「仕事が大変だわ」という話を聞いた。この種の話は何のためにするのだろうか、と思った。これがなかなか終わらないのだ。

まず、これは実は間接的には自慢になっている。例えていえば、女性が高いバッグなどを「高かったのにたいしたことなかった」というのに似ている。つまり、本当はバッグを見せびらかしたいが「たいしたことないね」と言われるのも嫌なので、わざと「たいしたことない」と言ってみるという心理だ。

この時女性に「自分が選んだのだから仕方がない」と言ってみても意味はないし「では、ぴったりのものに変えてみよう」などと<建設的な提案>をしてもいけない。「いや似合ってますよ」などというのが正解だろう。女性は「そんなことないよ」といいながら満足するのだろう。

同じように「いや、頑張っていてエライと思うよ」などと言ってやるのが正解なのだろう。あやしてもらうことを期待しているということになり、実に面倒臭い。が、日本人にとってあやしあいは当然やってもらえる権利のようなものだ。

さらに、話を聞いている方も意外と満足げだ。つまり自慢されてしまうと「実は大したことがない」という感情が生まれるのだが、苦労していると聞くと逆に「自分のやりたいことをできていない」と安心するようだ。競合心と嫉妬心が強いのである。そこであの人も苦労しているのに頑張っているという感情になる。が、この競合心は意外と認識されていないのではないかと思う。

だが、居酒屋トークの一番の狙いは責任転嫁だろう。「いやいややらされている」と宣言することで「責任を取らなくてもよい」と考えるようだ。つまり、自分が好きでやったと考えてしまうと、いろいろうまくいっていないことに「これで良かったのだろうか」と考えてしまう。日本のサラリーマンは自発的意思を放棄することで、安心を買っている。会社のいう通りに転勤して、得意でないことをやらされる可能性があるのである。

最近では国内の市場が行き詰っているために、海外転勤をさせられることがあるようなのだが、海外に出てしまうと日本の法令について行けなくなってしまい、数年程度で使い物にならなくなってしまうそうだ。が、そこで「個人の成長」などということを主張してはならない。また、3年の約束で帰るということになっていたとしても、非公式ネットワークを通じて後継者を見つけた上で、その後継者にその役割を押し付けないと帰ってこれないこともあるそうである。

つまりもともと個人の成長を犠牲にしないと成り立たない仕組みになっている。いやいや仕事をさせられて誰も怒らないのは、使い物にならなかったとしても会社をクビになることはないからだろう。つまり、成長しなくなったとしても、失敗さえしなければ面倒だけは見てもらえるので、いやいや仕事をするのが最適な選択肢になるのだ。

もちろん問題点を指摘することはできる。

最初の問題はいやいや仕事をやることで仕事の効率が落ちてしまうということだ。多分、成り行きによって作られただけで何の意味もないルール縛られており、個人が効率化を追求できない。だが、現在では「それがなぜ行われているのか」を考る時間さえないそうである。なぜならばブラック企業批判があるために残業時間が制限されているからだ。

もともと企業の効率が落ちたのは人件費削減を通して技能の継承などができなくなってしまったからだと考えられる。このために新人が業務を継承できなくなっただけでなく、中間層も「人に技術を伝える」ということを習得できなかった。だが、時計の針は一歩進んでしまっていて、不効率になった状態を考えることすらできなくなってしまっているようだ。

企業もそのことはわかっているようで、社内研修をして「経営マインド」を持たせようとしたりしているらしい。例えば、経営的視点で業務改善をしてもらったり、後継者の育成を現場発でやらせようとするわけだ。

しかしながらこれは「会社に言われたらいやいやながら職場を移動する」という受け身の姿勢とは相容れない。ゆえに「研修は研修」として、実際には「誰も納得してないけど、生活のためには仕方がない」と言い訳して、結局何も変えないというようなことになってしまうのである。

が、これで企業価値が大きく損なわれるということはない。おそらく何も考えないことで表面上効率は上がるだろう。

おそらく後継者は育たないだろうが、それが表面化することはないかもしれない。10年以上かけて非正規化が進んだが、これが表面化することはなかった。問題は技術継承されず、非効率で意味のわからないルールで苦しめられるだけだが、自己責任だと思い込むに違いない。しかし、みんないやいややっているんだと気持ちをなだめながら生きて行くことになるわけだ。

居酒屋議論的な愚痴を聞きながら、いろいろと愚痴を言いながら当事者たちはそれなりにハッピーなわけだから外からいろいろととやかく言うことはないなと思った。

問題があるとしたら、みんな誰かに何かをやらされているのでリスクをとって何かをするということはないし、誰も結果責任を取らないということくらいだろう。つまり、日本の組織というのはそもそも誰も責任を取らないために存在しているので、責任追及が始まっても結局誰が何をやったかがわからなくなってしまう。これは隠しているわけではなく、そもそも最初から誰も何も決めていないからなのだろう。

もともとそういう土台があるので、うっかりと誰かが「決める政治」を始めてしまうと、状況が大混乱するのだろうとも思う。豊洲や加計学園の問題を見ていると「何がどうなっているんだ」などと思うわけだが、これは政治家だけが悪いわけではなく、もともと決めない土壌が根を張っているからなのではないかと思う。

 

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