須藤凜々花に説明責任がないわけ

AKB48の須藤凜々花が総選挙で結婚宣言をした。今回はこの行動に説明責任があるのかを考えてみたい。

前回、説明責任について考えた。説明責任とはエージェントの手がける事業について投資者に説明をすることだと定義した。その行動の裏にはなんらかの契約があるはずなので、契約について考えればよい。

では須藤さんの契約とは何なのだろうか。実は、恋愛禁止というのは暗黙のルールであって、契約ではない。そもそも契約はないので、果たすべき責任もなく、ゆえに説明責任もないことになる。この話は以上で終わりになる。つまり須藤さんには説明責任はない。果たすべきか、果たさなくてもよいかということではなく、そもそも責任がないので説明責任が追求できないのだ。

この件について須藤本人は「オタクは夢に投資しているから見返りがないからといって誰かを非難すべきではない」と言っている。つまりオタクが勝手にやったことであり、契約はないと言っている。ゆえに説明責任は生じないのだ。

では、恋愛禁止とは一体何なのだろうか。それは「原子力発電所が事故を起こさない」というのと同じような取り決めだと考えられる。原子力発電所が事故を起こすかもしれないという前提をおくと様々な責任が生じ、対応策を取らなければならなくなる。しかし「そもそも事故は起こらないのだ」ということにしてしまえば、対策は取らなくてもよいし、誰も責任を問われることはなくなる。かといって、事故は起こらないとみんなで思い込んでも事故はなくならない。

AKB48グループは取り立てて歌がうまいわけでも、踊りが上手なわけでもない女性の集まりである。売り物は疑似恋愛だ。そのことは売り手側も狙っているだろうが、実はファンもなんとなく了解している。そこで「恋愛はないことにしよう」と取り決めている。こう取り決めることで恋愛があった時のことは考えずに済むので丸く収まるのだと考えられる。

しかし、これを実際に契約にしてしまうと、複雑な問題が生まれる。一番厄介なのは憲法や各種労働法制上の問題だろう。なので、雇用者であるプロダクションやプロデューサーたちもこれをルールですよとは言わない。なんとなくほのめかしている。

この問題の面白いところは、誰も契約を定めていないのだから、誰も法的な執行を行わないということだ。つまり「エンフォースメント」に当たる概念がないことになる。そのため、実質的には野放しになっていて、ばれなければ恋愛をしてもよいということになっているのではないだろうか。ファンの中には純粋に「恋愛は禁止されている」と考えているものもいるだろうが、一方で「それなりのことはしているだろうなあ」と想像している人もいるだろう。

にもかかわらず、この取り決めが「全く存在しない」とはいえない。実際にメンバーは「AKB48は恋愛禁止です」と言っているし、この取り決めを破ったという理由で制裁されたメンバーもいる。峯岸みなみは、丸坊主になりAKB48から降格させられた。指原莉乃は博多のグループに左遷させられた。単なる機体なのだが、その期待が裏切られればそれなりの怒りが生まれるので、その怒りがグループ全体に及ばないように、自己責任という名目で私刑にしてしまうのだ。これはファンへのメッセージになっているだけではなく、同時にメンバーへの見せしめになっており、誰も責任を取らない約束を守らせる動機として機能している。

だが、須藤さんのようにいったん脱退することを決めてしまうと、特にこのルールの有効性は失われる。もともと法的な根拠など何もないのだから「ごめんなさい」で済んでしまうのだ。面白いのはAKB48の少女たちがこれをきちんと理解しているという点である。総選挙のスピーチを聞くと、彼女たちはまともな知的能力を持っているとは思えないのだが、それでも自分の処遇となると正しい判断ができるのだ。これは空気による暗黙の強制が日本人の行動にかなり早いうちから備わっていることを意味する。

空気は個人の我慢によってなりたっており、集団社会で生きてゆく上ではとても大切な取り決めである。芸能人だけが空気に縛られている話ではなく、会社勤めをする大人や官僚も空気に支配されている。そもそも我慢をしないで輪を乱したという理由だけで左遷したり降格したりするというのは、サラリーマン社会が原型になった一種のパロディーになっている。

空気による制限と私刑は日本人の行動様式に最初から備わっているので、すべての用語が日本語で片付く。空気、みせしめ、まるくおさまる、わ、我慢というのはすべて大和言葉か漢語である。我慢のように本来とは全く異なる使い方をされる用語もある。一方でアカウンタビリティに関係する言葉はすべて英語であって政治家のような人たちですら理解ができない。

須藤さんが掟破りをしたのを起こったのはファンだけではなかった。実際には恋愛禁止のルールを押し付けられた側の人たちの方が強い拒絶反応を持ったようだ。中にはインスタグラムを通じて無言の圧力を送った元メンバーもいた。これも我慢を強いる空気が相互監視的な圧力を強めて行くのに似ている。一番苛烈な例は第二次世界大戦下の日本だろう。息子を兵隊にとられて殺されたような一番の被害者が「あの人は浮かれている」などと言って、普通の市民を告発したりしたのである。

なお、この話は週刊文春に須藤さんの恋愛話が乗ることを予測したスタッフが「だったら結婚話にして話題を提供すればよいだろう」と演出した可能性があるという話が飛び交っており、秋元康が仕組んだに違いないなどと尾ひれまでついている。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です