「プロ障害者」を非難する人がいなくならないのはなぜなのか

先日来、Twitterに「車椅子は社会の迷惑だからすっこんでろ」という人がいなくならないのはどうしてなのかということを考えていた。最終的には、彼らは社会に愛されている実感がないんだろうという結論に達した。

社会には、なんのために生きているのかわからない人たちが大勢いる。会社に行けば部品のように扱われ流上に、やっていることの意味も社会のルールの意味もわからない。かといって、自分で社会を変えた経験もなければ、その意思決定にどう参加していいかもわからない。かといって理不尽なルールに反抗する勇気もない。いろいろな人に気をつかうが、自分に気をつかってくれる人はいない。かといってその苛立ちを誰かにぶつけることもできないし、その機会もない。

そんなときに別の誰かが社会から同情されていたらいったいどんな気持ちになるだろうか。それは車椅子の男性かもしれないし、子供を抱えたおかあさんかもしれない。彼らや彼女たちは社会に同情してもらっている上に、ルールまで変更される。

すると「自分は誰にも顧みられないのに、この人たちが愛されるのはどうしてか」と思うのではないだろうか。おまけにルールまで変わっているわけで、それはとてつもない特権に見えるだろう。

実際には不都合なルールがあればみんなで協力して変えて行けばいい。ルールは人を縛るためにあるわけではなく、できるだけ多くの人が幸せになるために存在するからだ。しかし、よく考えてみたら誰かもそんなことは教わらなかった。我々が学校で習うのは「規則だから守れ、それ以上は考えるな」ということだけだ。

自分はルールの奴隷なのだから、相手もそうなるべきだと匿名で主張してみる。なんとなく社会的に意義があることを言ったような気分になるし、ジンケンヤにひと泡吹かせることで自分にも影響力があるということが確認できる。

多分キーになっているのは社会的認知だろう。社会的に顧みられることには多分快感が伴っている。こうした仕組みは、人という動物が群れで暮らすに当たって協力関係を維持するために発達させたのではないかと考えられる。だが、社会に建設的な影響を与えられなければ、それが破壊につながることもあるということだ。

本来ならば、議論をすることで他人の人権を抑圧する人たちの態度を変容させることができるはずなのだが、これはあまり意味がないのではないかと考えられる。それはそもそも論題が「俺はなぜ愛されないか」だからだ。車椅子などどうでもよいわけだから、車椅子について議論しても仕方がないわけである。

そればかりか、彼らに対して反論すればするほど、彼らに餌を与えていることになる。だから、本来ならば、彼らに愛を向けてやるべきだし、そのような義理はないと考えるなら無視するのが一番よいのではないかと思われる。無視すれば社会認知による快感は得られないからだ。彼らは思ったような回考えられないから「都合が悪くなればだんまりですか」などというだろうが、それはアルコール依存症の患者がお酒をもらえないで暴れているのと同じような反応なのではないだろうか。

多分、他人の人権を制限したい人たちに躍起になって反論する人が多いのは、そうした人たちが社会の空気を支配することで、世の中が悪い方向に進むということを懸念するからだろう。

ここで、彼らが障害者の人と同じ飛行機に乗っっていたと仮定してみよう。障害者の搭乗に手間取って出発が遅れたとしても、彼らは文句を言わないはずである。彼らは名前と顔を晒して公共の場で「障害者よりも俺を優先しろ」などという度胸はないだろう。

だからといって、この状況に全く問題がないというわけではない。多分、一番深刻な問題は、社会から顧みられているという実感がない人が世の中に溢れていて、社会的認知を熱望しつつ、どうしていいかわからないという気分になっているということだろう。

第一の懸念は、社会に納得感がない人たちの生産性は多分それほど高くないだろうということだ。もしかするとかなり優秀な人の中にも、何のために働いているのかわからないと考えている人がいるかもしれない。それは現在の官僚機構をみればよくわかる。彼らがやっているのは、安倍政権の辻褄合わせだが、社会的には全く無意味である。石を積むようにして安倍政権を弁護するわけだが、その石を政治家が崩すという徒労を延々と繰り返している。ルールを作レル立場にいる人でさえそのような状況なのだから、普通の市民が徒労を感じるのも無理はない。

もう一つの問題は、こういう人たちを扇動するのはそれほど難しいことではないだろうということだ。冷静な判断力がなくなっているので、相手が困った顔をするような政策に簡単に賛成するだろう。実際にそうやって権力を得たいと考える政治家は出てくるはずだし、すでに現れているのかもしれない。こうした人たちがある程度のボリュームをもって可視化された時、それが社会に悪影響を与えないとは言い切れない。

こうした人たちが変わるためには「もっと社会から省みてもらいたい」というネガティブな感情も含めたアサーティブさを身につけることだろう。つまり「自分も社会に顧みてもらいたい」ということを社会にむかって押し出すことができて初めて、他人を大切にするということができるようになるのではないかと思う。が、これは日本人にとってはかなり難しいことなのかもしれない。

つまり、この社会に対して「もう疲れた」とか「やっていられない」と思っている人よりも、頑張って「やりがいがある自分」を演じている人の方が、実は「障害者はルールを守っておとなしくしていろ」とか「社会に迷惑をかけるな」などと言っているかもしれないのだ。

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