日本人はすでに新しい戦争状態にある

最近。車椅子の人は飛行機に乗る時に遠慮すべきだという人や、お母さんは国会議員であっても子育てに便宜供与を受けるべきではなく、黙って歩くべきだなどという声がある。これを聞くと「日本は愛のない冷たい社会になった」などと思いそうだが、必ずしもそうとは言えない。そもそも日本は個人にはとても優しくない社会だからだ。

各国の企業文化を研究して指標化したホスフテードは、日本社会が極めて競争的な社会であることを「男性性」という軸で説明している。なかなか面白い指摘を含んでいる。


日本は競争や達成によって、その分野で一番の人が評価されるという社会である。この競争は教育現場から始まり社会人になっても続く。

女性的な社会では相手を思いやったり、生活の質をよくすることが大切になり、生活の質がよいことが成功として評価される。男性社会のように、秀でていることが評価されるわけではない。男性的な社会ではベストであることが評価されるが、女性的な社会は自分たちのやっていることが好きかを評価する。

95というスコアは極めて高く、日本が男性的な社会であることを示している。一般的に男性的な競争というと個人が競い合うことだと見なされそうだだが、個人主義がそれほど強くない日本の競争は集団間のものになりがちだ。例えば、幼稚園児が運動会で白組と紅組にわかれて競争したりするほどだ。

社員がもっとも一番やる気を感じるのは、勝ち組に入ってチームで競争している時である。例えば、ものづくりのように完璧な製品を作る競争に価値を見出す。また、ホテルやレストランのサービスでも、ギフトの包み方や食べ物のプレゼンテーションのやり方で競い合ったりする。悪名高い日本のワーカホリックは、男性性のもう一つの表れだ。労働時間が長いので、女性が出世の階段を登るのはとても難しい。


これを読むと、日本はそもそも優しくない社会であるということがわかる。社会を居心地よくすることにはあまり関心がなく、競争そのものに価値を見出している。ホフステッドは他にも様々な指標を持っているが、男性性だけをとっても日本文化の特殊性が説明できる。

第一に日本人は集団の競争が好きなので、勝ち組に乗って負けた人たちを叩くのが好きである。最近では自民党が勝ち組と認識されているので、負け組である民進党・自由党・社民党・共産党を叩くのが大流行した。人生の中で「勝っている」という実感が得られない人ほど、こうしたグループで「勝ち組に乗っている」というような仮想的な優越感を得ることができるのだろう。

こうした人たちにとっては、競争こそが善なので、居心地の良さや優しさというのはそれほど価値がない。そればかりか、女性や障害者というのは競争の足を引っ張る足手まといで弱い存在なので、それを叩いたとしてもそれほどの罪悪感を感じないだろう。

彼らは勝てる競争を選んでいるわけで、障害者や女性のような弱いものに勝つこと自体が目的になっている。そもそも競い合いが目的なので、彼らを説得しても無意味である。これは運動会で「紅組と白組は仲良くすべきである」というのと同じことだ。そんなことをしたら運動会が盛り上がらない。

韓国の同じ項目を読むと、対立は妥協と話し合いで解決されると書いてある。同じ東洋圏にあっても、韓国は女性型社会なのだ。日本は競争での解決を目指すので、妥協が起こりにくい社会と言える。よく、多数決が民主主義だという人を目にするが、これも競争型社会の特徴である。日本のような競争社会では、勝てば何をしてもよいのである。韓国は女性型社会なのだが、関与によって意思決定が行われるとされる。だから、日本と韓国ではデモのあり方が違っている。競争型の日本ではデモは「負け犬の遠吠え」とみなされるのに比較して、韓国では民意だと考えられている。韓国のほうがより包摂性が強い。

スウェーデンは極めて女性性が高く、すべての人に役割が与えられている状態がよい状態だと考えられているという。ラゴムという「過不足ない状態」をよしとする文化があるそうだ。みんなが納得するまで話し合いを続け、どんな人で社会参加ができる状態をよしとする文化は、日本のリベラルの人たちの憧れとなっている。が、スウェーデンは極めて包摂性が高い社会なので、彼らの制度をそのまま日本に持ってこようとしても支持されない。

が、現代の問題は競争が自己目的化しているばかりか、情報が古いままで止まっているという点だろう。韓国や中国に関する情報も昔のままで止まっているので、中国や韓国は「自分たちが勝てる」存在と認識されていると言える。多分、憲法を改正して軍隊が持てれば勝てると考えているのだろうが、それには根拠はないかもしれない。実際には、韓国の所得水準は日本と並びつつあるし、中国の技術水準は日本を上回りつつある。

この分析を読むと「何のために戦っているのだろうか」という疑問に意味がないということがわかったからだ。例えば組体操の目的は近隣の学校で一番高い人間タワーを作ることであって、それに何の意味があるのかとか、安全にできるかとか、それを作るのが好きかという質問には全く意味がない。とにかく、集団で競い合うことに夢中になっているのだから、事故で脊髄を痛める子供が出てきたら隠蔽されなければならない。競争の邪魔だからだ。

いわゆるネトウヨという人たちは戦争が好きなように見えるのだが、彼らは何のために戦うのかという点にはあまり関心がないのかもしれない。その頂点に立っているのが安倍首相であり、首相は彼らにとってみればヒーローだ。ここで、ポイントになるのは、この戦争はネトウヨの人たちの犠牲を伴わないという点だろう。何の代償も支払わず、勝っている実感が得られるという点が重要なのかもしれない。

そのように考えると、こうした永遠の闘争を繰り広げる人たちを右翼という言葉でくくるのはあまりよくない気がする。さらに面倒なのはこれに対峙する左翼の側の人たちも「紅組と白組」に分かれて戦っており、彼らにとってみても「その戦いにどんな意味があるのか」という問いにはそれほど意味がないのかもしれない。少なくとも闘争好きな左翼の人たちは「負けつつある戦い」を戦っているという意識があり日本人としてはあまり愉快な状態ではない可能性はある。

こうした、極めて競争的な国民性は発展途上国から先進国になるためにはとても有利だったと言えるだろう。が、先進国としては不安の方が大きいかもしれない。車が行きわたったら、今度は行った先でどう快適い過ごすかなどということが大切になってくるわけだが、日本人はそうしたことを考えるのが極めて不得意だ。さらに、競争に意味を見出せない人が増えてくるので、韓国や中国を叩いたり、弱者をいじめたりする競争へと移行してゆくのだが、これはあまり国力の増強には役に立たない。

つまり、日本は新しい戦前なのではなく、極めて無意味ながらすでに戦争状態に突入していることになる。だが、その戦争にお付き合いする必要はないように思う。闘争のための闘争などどう考えても無意味だからだ。

が、それがあまりにも日本の社会に深く根付いているために「居心地のよい社会を作るために、敵を倒す闘争に参加する」という、冷静に考えるとわけがわからない状況が作り出されている。

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