日本をぶっ壊さないために私たちができること

さて、先日来「日本人は元来闘争好きなので、政治が劇場化する」みたいなことを書いている。日本人をディスっている文章なので、閲覧者が減ってゆくのではないかと思っていたのだが、日に日にページビューが増えていて、書いている方が逆に心配になってきている。多分「世の中狂ってる」と考えている人が多いのだろう。

が、政治が劇場化すると問題解決をそっちのけにして、分断が深刻化する。すると社会が弱体してゆくので、どうしたら劇場化が食い止められるかということを考えてみたい。考えては見たいのだが、もしかしたらそれほど興味はひかないかもしれない。

通路は2つある。一つは集団を通じて争うのをやめて個人ベースの競争に移行する方法で、もう一つはかつてのように集団的な闘争心を別の生産的な方向に向けることだ。日本の政治が劇場化するのは、日本人が集団での競い合いに陶酔するからなのだから、それを阻害してさえやればよいのだ。

第一の方法は、集団ではなく個人に焦点を当てることである。個人としての日本人は比較的穏やかなので、個人のままで社会的な交渉をしたり、社会参加する方法を見つけてやればいいことになる。自分たちでモデルを作ってもよいが、すでにこうなっている社会もある。それがアメリカだ。

だが、この解決策には大きな壁がある。日本人は個人としてはとてつもなくシャイなのだ。WEARというファッション系のSNSでは顔を隠している人が多い。中には目だけを隠している人も見受けられる。正体がバレるのがいやというより、目から魂が抜かれるのがいやなのではないかと思うほどだ。それほど、社会に顔をさらすことには抵抗が強いのである。

次の方法は、闘争心を生産的な方向に向かわせることだろう。高度経済成長期の日本人は取り憑かれていたように働いていたのだが、これは経済戦争を通じて負けたはずの相手と対決できたからだろう。このように企業が絶対に負けない戦争をしているうちには問題がない。

自民党が比較的穏健な政党だったのは、利益共同体が母体になっているからだ。「生業」を保証することで生涯賃金を保証したのである。これが崩れて宗教的な団体が支持母体になったころからおかしくなってしまった。前回のエントリではAKB総選挙と企業活動のどっちを優先するかという話を紹介したのだが、実は政治にも同じようなゲーム化の傾向が見られると思う。何かにつけて外野の人たちが集まってきて騒ぎ出す。彼らは問題とは関係がないので、解決したり収束したりということがない。逆にいつまでも騒いでいたいのだ。

例えば、豊洲・築地の問題は「変化する日本の食糧流通に公共がどう関わるか」ということと「観光資源としての日本の伝統をどうやって世界に発信するか」という課題に限っていればこれほどの大騒ぎにはならなかっただろう。しかし、小池百合子東京都知事が東京都の利権を簒奪するために利用したために、全く関係のない人たちを大いに引きつけることになった。

よく、日本の政党はイデオロギー型から問題解決型に移行すべきだなどという人がいるが、それは間違った考え方だ。そもそも現実の政治課題もうまく扱えないのに、どう生きるかなどというイデオロギーを扱えるはずなどないのだ。社会主義イデオロギーに見えていたのは「今の政治はくだらない」というルサンチマンに過ぎない。

日本人が政治による問題解決ができないのは、話し合いではなく集団での闘争を通じてものごとに「白黒をつけようとする」という精神があるからなのだろう。どうしても集団間の闘争によって勝ち得たものが正義だということになってしまうので「どう正しくあるべきか」ということは問題にならない。「勝ったものが正しい」のである。そもそもイデオロギーなど成立しようがない。もし、第二次世界大戦でソ連に占領されていたら世界一うまくいった社会主義国になっていたかもしれないが、どちらにしても深層は民主主義でも社会主義でもないのではないのだろうか。

さて、ここまで「問題は解決できるけれど」「それは日本人の性質上難しいのでは」と書いてきたのだが、政治から生活に戻ろうとする動きはすでに自民党の内部で始まっているようだ。自民党には「正解を目指す闘争」と「経済的利益の追求」という二つの流れがある。前者を象徴しているのは、岸信介・安倍晋三・日本会議・天賦人権の廃止。憲法第9条の廃止などの強さを希求する動きである。が、この動きはすべて分断を前提にしているし、実際に国家を分断させてきた。一方で、経済的利益はある程度自治の効いた利益集団の水面下の話し合いによって決まる。このためある程度は抑制が効いており、多くの人々に受け入れ可能なものになっている。池田勇人が入ったように「みんなの給料が二倍になりますよ」の方が受け入れてもらいやすいのだ。

だから自民党が政権にあるときに憲法改正を言い出すと支持率が急落するのである。どちらが原因でどちらが結果なのかはわからないものの、憲法改正は現実の問題を解決するための道具ではなく、とにかく何だかわからないが「闘争に勝つ」ための手段なのだろう。これは学校の規則を変えて毎日運動会をやるというのに似ている。

現在の懸念は、自民党の一部を代替しつつある小池百合子東京都知事がこの二つの流れをどのような割合で含んでいるかである。自民党内で勝ち上がるために日本会議を<利用していた>のなら、今までの間に、プラクティカルではないと有権者の支持が得られないということを学んでいるはずだがそうでない可能性もある。多くの人たちが自民党の補完勢力になってしまうのではと懸念しているようだが、果たしてそれはどちらの自民党だろうか。

いずれにせよ、西洋的な民主主義をモデルにしている人は、個人が契約を通じて社会と結びつきそれが最終的に政治になるというようなルートを目指すべきだろう。そののちに、北欧のような社会包括性のある国家づくりを目指すべきだが、そのためにはこれには揃えなければならない牌が多く、なかなか実現しないのではないかと思う。それよりも、目的意識が明確な集団を通じて、利得の獲得を目指す高度経済成長型の社会に戻す方が簡単なのかもしれない。

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