日本人の<奴隷根性>について

Twitterで、「不都合があっても決まりを守って我慢しろ」という人が多いのはなぜかという疑問を見つけた。「日本人は都合の悪い決まりでも上から押し付けられたら守るようにしつけられた奴隷根性があるからだ」と理解する人が多く、例えば障害者にこのように主張するのはブラック企業と通底する悪い根性があるという。が、本当にそうなのかと思った。

日本人は確かに決まりを変えられないのだが、実はいわゆる「上」の人たちも決まりが変えられない。つまり、奴隷根性のせいで規則を押し付けているわけではなく、何か別の要素があると考えることもできる。

その顕著な例が憲法である。憲法は未だに一度も変わっていないのだが、憲法改正をアメリカに禁止されているわけではない。占領政策の一環という意味合いはあったのだろうが、いずれは自分たちで変えるだろうと考えていたのだろう、だが、政党の中でも意見がまとまらず、まとまったとしてもある程度の数の人たちが大反対してくることになっている。

決まりを絶対視しているわりには、決まりを大切に思っているような様子もない。あらゆる決まりはなし崩しになってしまう。例えば、戦争しないし武力も持たないという決まりはすぐに無効化して、今では完全に形骸化してしまった。1/4以上の国会議員が請願すると国会を開かなければならないという決まりがあるそうだが、多分これも「禁止規定がない」といって無視されるのだろう。「芸能人が不倫をしてはいけない」という決まりのほうが憲法より重大なものだとされている。

これは、高速道路を80km/hで走れという決まりのようなものだ。実際に運転する際には周りに合わせて少し早い速度で行かなければ走らなければならない。警察の目があり「取り締まりがありますよ」ということになってはじめて制限速度が守られることになっている。

憲法が守られるのは「憲法警察」という取り締まり官がいる場面だけなのだろうが、裁判所も重要なことについては判断しないし、国民もあまり憲法には関心がない。ということで政府はスピード違反をやり放題になっている。

さらに決まりを守れという圧力は変な方向に進むことがある。例えば下村文部科学大臣が200万円の献金を「11人で分割した」というのはそれほど問題にはならなかった。こう「説明」すると、’形式的に法令に合致するからだ。本来は国民の疑念を払拭するために始まった制度だが、いつの間にか形式を守るゲームになっている。

こうした事情を考え合わせると、日本人は決まりをやたらとありがたがるのになぜ守らないのだろうという疑問が出てくる。

日本人はかなりユニークな決まりの使い方をしているようだ。相手にプレッシャーをかけて我慢させる時に決まりを持ち出すのである。「決まりなんだから障害者は安い飛行機に乗るな」というのは、実は声をあげて権利を主張する障害者に対する嫌がらせになっている。萎縮させて黙らせようとするのだ。

憲法第9条は政府を非難するための道具になっているが、かといって北朝鮮と直談判してミサイルの開発を止めさせようという人は多くないし、政府に働きかけて核兵器禁止条約への積極的な関与を求めるような世論も盛り上がらない。あまりそれを実のあるものにしようという動きにはならない。

例えば、障害者の声が通ってしまうと「自分よりも彼のほうがえらい」ということになってしまう。それは彼の得点になってしまうので、それを制限しようとするのだ。つまり、決まりを作る人が偉いという気持ちがあるのではないだろうか。

実はこの心情は安倍首相にも通底している。安倍首相は「誰も変えられなかった決まりを変えてみせる」ことで「俺は偉い」という印象を与えたいのだろう。

こうした「決まりを作れる人は偉い」という気持ちを持っている日本人は多い。理不尽な決まりであればあるほどその権力が誇示できることになる。

このように決まりを作る裏には「決められる人は偉い」という気持ちと「勝手に変えられると面白くない」という気持ちがあり、その二つの気持ちが衝突することになっている。

そこで、実際に憲法議論は「どの条項を変えるのが一番受け入れられやすいか」というわけのわからない闘争になっている。つまり、誰の声が大きいかという競争になっているのだ。障害者に関する議論もその延長にすぎない。特に理屈があるわけではなく、ネットの(匿名だが)多数の声のほうが一人の<わがまま>より大きいのだということを納得させたいのだろう。

本来、決まりとはある目的を達成するための手段なので、変えたければ変えればいい。例えばオリンピック競技には決まりがよく変更されるものがあるが、大抵はテレビ映えするようにしたいという動機があるようだ。実力ではなく水着競争になってしまうのを防ぐとか、スピーディーに試合結果が決まるようにルールを調整するというような実利的な変更が行われている。

だが、日本の決まりは、自分の声の大きさを証明するための道具として使われることが多いようだ。コンセンサスを得て新しい決まりを作るよりも、今ある理不尽なルールを押し付けるほうが<経済的>だから、人々はルールを押し付けるのかもしれない。それでは実務が回って行かないので決まりを形骸化させる道を選ぶのである。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です