説明責任と言論コミュニティの質

先日Quoraで説明責任について考えさせられるできごとがあった。説明責任をきちんと果たせば心地の良い言論空間が作れる。だが、それを維持するのが難しい。

韓国人は外国にものを売り込むのが得意だが日本がダメなのはどうしてかという質問があった。この違いが出るのは、韓国人が英語を話せるからなのだが、実は国内のマーケットの大きさが関係しているのではないかと思う。韓国は人口が少ない上に同じ言語を話せるマーケットがほとんどないので、海外に出たのだろうと書いた。

その時に、1970年代の人口を使って説明した。韓国は現在5000万人ほどの人口があるのだが、当時は3000万人に満たない程度だった。が、これにたいして「韓国の人口は5000万人なのに、なぜわざわざ1970年代の人口を使うんだ」というクレームが入った。

ネトウヨ系の韓国人だと面倒だなあと思った。これはつまり日本は韓国より大きいということを言っており、であるから日本のほうがえらいというようにも取れるからだ。

だが、一応説明を書いておいた。説明責任というのとはちょっと違うのだが、一応書いたから製造者責任くらいはあるだろう。多分、現在の人口よりも産業が起こった時代の人口の方が関係があるだろうと説明し、さらにGoogleで調べて書いているので(人口を調べるとグラフが出るのだ)変化はわかっていますよと書き加えた。

ほどなくしてupvoteされた。どうやら納得してもらえたようである。少し拍子抜けした。

拍子抜けしたのは日本語での(主にTwitterだが)の議論に慣れすぎているのだと思う。Twitterの議論は一方的な賛同か、敵意をむき出しにするものが多い。両極端のように思えるのだがどちらも人の話はあまり聞いていないという共通点がある。みんな「自分はすでに十分に知っている」と考えているので、説明などは求めておらず、自分の主張を一方的に展開するものになりがちなのだ。

一方、Quoraは「説明を聞いてから納得できなければ反論しよう」という文化が維持されている。議論が建設的になるというメリットがあるばかりか「何かあったら説明しなければならない」というよく説がかかり、書き手もいい加減なことを書けなくなる。さらに、システム側のモデレーションがあり本名でなければならないという規定もある。ただし、名前をチェックされるわけではないので、偽名にしても露見はしないかもしれない。

だが、一番大きいのは、質問者の質だろう。Quoraは英語なので、外国人の場合はある程度アカデミックなバックグラウンドがないと、情報そのものにアクセスができない。日本人が英語で書いているものもあるが、中には「英語がわかりにくい」という理由で後ろに表示されているものもある。つまり、論証した上である程度順序立てて書くことに慣れた人が書き込んでいる可能性が高いのだ。

ただし、こうしたサイトをいつまでも無料で続けるのはかなり難しいのではないかと思う。もでレーションが聞かなくなり、政治的に極端な意見が溢れるようになれば崩壊してしまう可能性もありそうである。

一方、Twitterは誰でも書き込める短文投稿なので、敷居が低き簡単だと思われがちだ。が、実際には詳細な情報を書き込めないので、誤解を生じないように書くのは極めて難しい。そもそも「どう誤解されるか」を予想しないと、誤解されないようには書けない。

さらに、日本人は公の場で発言をすることに慣れていないので、相手を説得するのに不利だなあと思うことがある。いくつかの点で劣っている。

  • 最初から立場を決めているので、客観性にかけると判断されやすい。
  • 敬語の距離関係を間違えている。
  • 議論ではなく一方的な主張になっている。

例えば、こういうツイートをいただいた。安倍首相に帰ってきてほしくないというのは同意見なのだが、こういう書き方をすると、あらぬ反感を持たれかねない。

絶叫調になっている上に、文脈が破綻して途中から自分の言いたいことを言っている。日本人は普段締め付けられている(自粛しているだけなのかもしれないのだが)ので、匿名になると、こういうことになりがちだ。左翼系の人にこういう人が多いのは、自分たちのやっていることが正義であり、当然受け入れられるべきだと思っているからなのだろう。しかし、こうしたコミュニケーション技術の欠如によって、政治にあまり興味がない人たちがいつまでたっても同調しない。そこで結果的に安倍政権が何年も続くという悪循環が生まれている。

さらに不幸なことに、こうした言い切り型のツイートは、実は今の政権中枢にいる人たちに影響を受けている。

どうやら「ぞんざいに書いたほうがえらい」という思い込みがあるのではないかと思われる。こうした「ぞんざい教」は意外と深く広がっている。例えば経済的にあまり豊かでない層の女性たちが子供達にこうした言葉遣いで接しているのをよく見る。一方ある程度教養のある人たちはそれなりの言葉で話すので、言葉の使用方法を聞いただけである程度教養がわかってしまい、乱暴な人たちのいうことはあまり聞いてもらえなくなるのだ。

この「ぞんざい教」の教祖は麻生太郎氏と安倍晋三氏だろう。麻生さんは多分育ちの良さを隠すために偽悪的に使っていると思う。一方、安倍首相は社会主義者や女性といった「弱者」を人間とは思っておらず乱暴な言葉遣いをする。そこで「地位の高い人たちは人の話を聞かず乱暴だ」という思い込みが生まれるのではないかと思う。

こうしたぞんざいで一方的な言葉遣いは教養のなさを示すスティグマになる。安倍首相が説明責任を果たさないのは、そもそも自分が何を議論しているかよくわかっていないからだと思う。つまり、知的に劣っているというスティグマになっていて、これが教養のある人たちに嫌われる原因なのだと思う。

つまり、使っている人たちは気がつかないが、たいていの人はこうした言葉遣いからは距離をおいてしまうか反発を強めてしまうのだ。社会的差別の一種なのだが、そういう差別は存在する。

議論の空間を作るためにはある程度のモデレーションとロールモデルが必要になり、トレーニングも欠かせない。そうしたトレーニングを受けるためにはお金と時間もかかる。日本語で生活しているとそうしたロールモデルすら得られない上に、悪い手本はいくらでもあるという状況があるようだ。それがさらに日常的な議論の質を下げ、悪い政治状況が変わらない原因になってしまっているのだ。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です