現代版「二つの祖国」は悲劇なのか喜劇なのか

小野田紀美という自民党の議員が左派の人たちから攻撃されている。父親がアメリカ人でありなおかつアメリカで生まれているためにアメリカ国籍を持っていた。選挙に出るまでアメリカ国籍を保持しており二重国籍状態にあったという。この人が自分は二重国籍を捨てたが、捨てていない議員はスパイなのではないかと言っているのだ。

この発言は彼女の政治的センスのなさをよく表している。と同時に自民党の閉塞感をかなりよく示す指標になっていると思う。

戸籍開示の問題は実は出自を知られたくない人たちの問題と意味合いが大きく、二つ以上の国の伝統を引き継いでいる人たちの問題はそれほど大きなものではない。ゆえに、この議論を二重国籍の問題だとすると本質を見誤る可能性が極めて高い。つまり小野田議員が提起した問題は実はそれほど本質的なものではない。

蓮舫さんはアジア系なので黙っていれば日本人とそれほど区別はつかない。が、小野田さんのように外見が違っていると日本人としては認められにくいかもしれない。安倍自民党は「内と外」を明確に区別するようになってきているので、小野田さんの属性(女性でハーフ)はあまり有利には働かないだろう。だからこそ、小野田さんはことさらに日本人性を強調する必要があるのだろう。

この件を見ていて、山崎豊子の『二つの祖国』を思い出した。正確にはNHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』として知られている。日系アメリカ人がテーマになっている。アメリカはドイツとも戦ったのだが、ドイツ系のアメリカ人が敵性人種として扱われることはなかった。なぜならばドイツ系のアメリカ人は大勢いて、なおかつ顔がメインストリームの白人系だったからだ。例えば、アイルランド人とドイツ人を外見から見分けることはできないし、ある程度混血も進んでいるのだから、ドイツ人だけを分離することはできない。しかしながら、日系アメリカ人は顔が他の人たちと違っていたために、他の人たちとは違った境遇に置かれた。

彼らは財産を奪われて劣悪な環境に収容された。さらに愛国心のテストなども行われて、パスしなければさらに苛烈な環境に追いやられたのだそうだ。つまり、容姿が違っているためにスパイ扱いされて、人権を抑圧されたのだ。このように扱われたのは日本からの移民だけだった。

小野田さんはこうした日系の人たちと直接つながりがあるわけではないのだが、日米の両方の文化を受け継ぐ人が軽々しく「スパイ」と言ったのは実はとても軽率なことだったのである。実際にスパイ扱いされて人権を抑圧された同胞が、日本人にはとても多いのだ。保守の人たちが血を大切に思うのなら、海外同胞の歴史にも興味を持つべきだろう。

日米は敵対していたので、日系人には日本人であることを選んだ人たちとアメリカ人であることを選んだ人たちがいる。アメリカ人であることを選んだ人の中にも、血のつながりがある人を人間として扱うべきだと考える人と新しい統治者として振る舞った人たちがいる。ドラマはこうした人たちを丁寧に描いているのだが、そのうちの何人かは悲劇的な最後を迎える。内面と外見が必ずしも一致しないことが登場人物たちを終生苦しめ続けたということになっている。

だが、当時と現在では状況がまるで違っている。日本とアメリカは戦争をしているわけではない。台湾と日本も戦争はしていない。にもかかわらず、なぜ小野田議員はことさらに日本人であることを強調しなければならなかったのだろうかということをずっと考えていた。それは、実は日本人が外国に囲まれていないからなのではないかと思った。

つまり「今ここに危機があるから」スパイを懸念しているわけではなく日本人としてまとまれるものがないから、ことさらに外国を警戒するような発言が出るのではないかと思うのだ。つまり、外国人は蔑視の対象として存在するわけで、平民の下に被差別階層をおいたのと同じような構図なのではないだろうか。

例えば、ドイツとフランスは国境を接しているので、ドイツ領内に「自分たちはフランスの影響を受けた外見を持っている」と考える住民が多くいる。東側はポーランドと国境を接しているのでスラブ系の影響を受けたドイツ人がおり、さらにその東方には支配階級だったドイツ人という人たちもいる。。つまり、ドイツ話者という自己意識は必ずしもドイツへの忠誠にはつながらないのだが、それが特に大きな問題になることはない。Wikipediaにはこのような記述がある。

  • 「ドイツ人、それがどこにいるのか私にはわからない」(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
  • 「我々をドイツ人として纏めようとする事は無駄な努力である」(フリードリヒ・フォン・シラー)

ドイツ人ですらドイツ人の定義がわからないのだが、厳然として隣の国と違った言葉を話すまとまった人たちがいる。つまりドイツ人は存在するのである。これが本来の民族意識なのだ。

国家の存亡という点だけに着目すると、多分ヨーロッパの方が切実なはずだ。国境を接していて領土の取り合いもあった。

一方、日本は外国と国境を接していないので、いったん純化欲求が起こると仮想的な分だけ競争が苛烈になるのだろう。まずは、外見が外国人風の人がはじかれれ、さらに血統の良い人が残るという感じなのかもしれない。

そもそも、日本の保守が何を保守するのかということが曖昧だ。保守の人たちが考える日本の伝統はm明治維新期に海外から入ってきた一神教の要素に「汚染」されているのだが、これを日本の伝統だと信じている人も多い。が、本当の伝統を知りたいなどとは思わないようである。本来の関心事は集団ないの序列であり、その序列に都合が良いように物語を作っているだけなのだろう。

アメリカは日本と戦争をしていたからこそ日本的なものを排除しようとした。だから日系人はことさらアメリカに忠誠を誓う必要があった。ところが日本はどことも戦争はしていないし、外国から今すぐ侵略されるという懸念があるわけでもない。にもかかわらず、なぜこうした純化欲求が起こるのかよくわからない。

外国に囲まれておらず、日本性というものが漠然としているからこそ純化欲求が起こるのではないかと思うが、政治がその役割を見失っておりまとまりを持つためにありもしない日本性というものが妄想されているのかもしれない。もともとの目的意識がない運動なのだから、当然その純化欲求は迷走するだろう。その迷走ぶりは外から見ると喜劇でしかないわけだが、必死でしがみつこうとする当事者たちはある種の必死さや悲劇性を感じているかもしれない。

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