水原希子に関する雑感

水原希子というアメリカ人が差別の対象になっているとして大騒ぎになっているようだ。どうやら母親が在日の韓国人らしいということで「日本人の血が入っていないのに通名で通すのはは厚かましいのではないか」という非難の声があり、擁護する側も通名を使ってなぜ悪いなどと言っている。

所詮他人の人生なのでいろいろ書くのはやめようかなあと思ったのだが、違和感というか思うところがあって書いてみる。彼女は日本人を思わせない名前で活動すべきだったと思うのだが、それは彼女の過去の言動や血すじなどとは全く関係のない話である。つまり、日本人は社会として公平にその人の力量や価値などを見ることができないのだ。つまりこれは日本人の問題であると言える。

水原さんが「オードリー・ダニエル」という名前で、主に英語を話すがときどき日本語を話すくらいであればこれほどのバッシングを受けることはなかったと思う。いわゆる外タレ扱いということになり「日本語も話せてすごい」ということになるからだ。なので、差別を避けるならこの線で行くべきだったということになる。

自分が好きな名前で暮らせる国になるべきだという人がいる。確かに理想なのだが、これは日本人には無理だろう。外国人に対する偏見がひどすぎるからだ。一概に差別意識というが、実際にはかなり複雑だ。見くだしによる差別もあるがその逆もある。だから実際に自分が出自によりステレオタイプでしか見られないという絶望的な体験がない人には補正は無理なのではないかと思う。

個人的にはこんな体験をした。例えば外国人(スウェーデン人だったりカナダ人だったりする)のデザイナーを連れていって英語で話をしているととても信頼されることがある。多分、英語がかっこいいとされているからだ。日本人(その人も英語ができる)のデザインと混ぜて持っていってもすべてのデザインがすばらしいという。が、その外人がプロジェクトを外れることになった瞬間に「仕事をキャンセルしたい」と言われることがあった。「外人が作ったデザイン」というのを売りにしたかったのだと言われたこともあるし、そうでない場合もある。日本人だけが来ると「特別感」がなくなり、色褪せて感じられるのだろう。

面白いことにこれはタイ人(アメリカで教育を受けており英語に訛りがあまりない)のデザイナーにも当てはまった、つまり、英語を話すコミュニティは高級だと考えられているので、それがアジア人でも構わなかったのである。と、同時に誰もデザインなど見ておらず「英語でミーティングができる俺はかっこいい」と考えていたのかもしれない。英語に特別感があると思うのは、タイ人がたどたどしい日本語で話すと「アジア人のデザインは本格的ではないのだ」などと思われかねないからである。

だが、面白いことに外人だけで営業に行かせてもダメだった。つまり、外人だと融通が利かないので無理が言えないと思うようなのだ。つまり、ちょっとしたニュアンスが必要なことは日本人に伝えて、かっこいい部分だけ外人と仕事がしたいと思うようなのだ。つまり、たいていの日本人は英語のデザインはかっこいいが、ガイジンは日本人のように融通は利かないと漠然と思い込んでいるのである。

もう一つの事例は日系アメリカ人についてである。英語で話をしている分には一級国人として扱ってもらえるのだが、日本語で話すと途端に「日本語が下手な二級市民」扱いされてしまう。だからアメリカでは積極的に日本語でコミュニケーションをとっていても、日本では日本語を話したがらなくなる人がいる。これは印象の問題ではなく、実際にアパートが借りられるかなどという実利的なことにもかなり影響が出てくる。だから、例えばなんらかの取引に出かけるときには、たとえ日本語ができたとしても日本人の友達を連れて言ったほうが、いろいろな話がまとまりやすいかもしれない。こちらも何かトラブルがあった時日本人の知り合いがいればちょっと無理が利くなどと思うようだ。

つくづく思うのだが、日本語が話せるだけでなぜ「この人は、業者の分際というものを理解しており、無理が言えるのでは」と思うのだろうか。

ここから言えることはいくつかある。一つは差別というのは一方で無条件の卑屈さを含んでおり、それには大した根拠はない。

例えば水原さんが「オードリー」という名前で活動しても水原さんの実態は変わりはないはずで、わざと日本語をたどたどしく話すのは「本当の自分」ではないと感じるかもしれない。だが、そもそも日本人は「ありのままの人間」などという概念を信頼しておらず、東大卒業のだれそれさんとか、英語が堪能なだれそれさんという漠然とした肩書きを通じてしか人間を見ていない。

これは日本人にも当てはまる。外人と普通に話している私と、普通に日本語で話している私では扱いが異なるということはあり得る。例えばレストランやカフェでの席の位置が変わったりすることになる。つまり、中年が一人でレストランに入ると「詫びしい」感じになるが、外人さんたちと一緒だと「英語ができる有能な人」扱いになったりするのである。

もちろん、マイノリティとマジョリティでは感じ方は異なるかもしれない。マジョリティはこうした待遇の違いを選択的に感じることができるわけだが(「普通の日本人」を選択することもできる)マイノリティにはそうした自由はないので「本当の私」というものがあるのではないかなどと思ってしまうのかもしれない。が、日本ではマジョリティでもアメリカに行くと「英語があまりうまくない」というラベルが強制的に貼られてしまうので、クロスカルチャで生きる以上、こうした差別感情とは無縁ではいられない。だから、そうした経験をしたことがない人がいろいろ論評するのは、実はあまり意味がないようにも思える。

いずれにせよ、日本人が外国人(これは在日の人を含む)に対して持っている感情にはほとんど根拠もない。根拠がないのだから、受け入れられやすいラベルを作ってもあまり関係がないのではないかと思える。

この話の悲劇的なところは同化しなければしないで叩かれ、かといって同化しても認めてもらえず、帰って異質なものを強調して日本人を見下すように行動すると尊敬されるというところにある。日本人であってもこの浅はかさに辟易してしまうほどなので、当事者の外国人の中に日本人を見下す人がでてくるのも想像ができる。

面白いことにこうしたことはソーシャルメディアの世界でもしばしば問題になる。つまり「自分を盛ってしまう」ことに罪悪感を感じ、本当の自分を見せるべきだとか本当の自分を見て欲しいなどと思い始めるのだ。だが「日本人は誰も周辺情報ばかり気にして中核を見ていない」とわかれば、こうした罪悪感は減るかもしれないと思う。

つまり、本当の私などどこにも存在しないのだ。

 

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